ヨハネの福音書13章12~20節

主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。
                   ヨハネ13章14-15節 (p211)

序 論)受難週の木曜日、最後の晩餐のとき、主イエスは弟子たちの足を洗われました。(4-5) 
 弟子のペテロとのやり取り(6-11)の後、主がさらに語られたことを通して示されることは…

本 論)
1.主イエスがなされたように
 上着を着て、再び席に着かれ、弟子たちに問われます。(12)
 そして弟子たちにすべきことを告げられます。(14-15)
主であり、師であるイエス様が弟子たちの足を洗われました。
 後に、教会で実際に足を洗うことが実践されていたことがパウロの手紙にも記されています。    (テモテへの手紙第一5章10節p422)
 しかし、ここで主イエスが「模範(手本)を示された」(15)のはただ弟子たちの足を洗ってふかれたということだけでなく、洗足に示された愛とゆるしの行いを弟子たちがなしていくためでした。
 彼らは主から愛され、最高の愛の奉仕を受けました。
主からの愛を受けた彼らは同じ仲間たちを愛するように、と言われたのです。
 「これらのこと(主イエスが行い、言われたこと)が分かっているなら」(17)の原文は「これらのことが分かっているのだから」という意味も含まれています。
 そして「それ(愛の奉仕)を行う(実践する)なら」、弟子たちは幸いなのです。(17)
 主の洗足は主のご愛と謙遜の現れでした。そしてこれから主がなそうとしておられる十字架の死と復活による救いのみわざの象徴的行為でもありました。

2.「わたしはある」と言われるお方
 主イエスは再び、ユダの裏切りを予告されます。(18)   
 ここで詩篇41篇9節(p975)が引用されています。主はこの詩篇で歌われていることが今、まさに起ころうとしていると言われます。
 この詩篇でダビデが歌っている出来事はサムエル記第二15章(p365)に記されています。
 このときダビデは信頼していた部下アヒトペルに裏切らられました。 
 「かかとを上げる」は裏切ることを意味しています。それがこのとき、成就しようとしていました。(18)
 「事が起こる」(19)は、主イエスが十字架の死と復活によって救いのみわざが成されることです。
 「わたしはある」(19)は、主イエスが神でありキリスト(救い主)であることを暗示することばです。
    (英語では I am.)(出エジプト記3章14節p102参照)
 主イエスは十字架で死なれた後、復活され、ご自身が神の御子、救い主であることを弟子たちに示されたのです。
 そして、弟子たちは主イエスを信じました。
 「遣わした者」(16)は主イエスのことです。「遣わされた者」は主を信じ、従う弟子たちのことです。
 「使徒」はギリシア語では「遣わされた者」という意味です。
 「わたしが遣わす者」(使徒たち(弟子たち))を受け入れる者は主イエスを受け入れる者です。(20)
 そして主イエスを受けれる者は「わたしを遣わされた方」(父なる神様)を受け入れるのだ、と主は言われます。

結 論)主イエスは私たちのために身をかがめ、足を洗い、救いのみざわを成し遂げてくださいました。
 私たちも主イエスのご愛とゆるしをいただいてこの世に「遣わされている者」です。
 私たちも主イエスの模範にならって、それぞれが遣わされている所で互いに愛し合い、ゆるし合いながら共に歩んでまいりましょう。

(参考)

 本日の交読詩篇27篇8節(p957)
    「わたしの顔」は神の御顔のことで、神の臨在を表している。
 「わたしの顔を慕い求めよ」は神ご自身を求める、という意味。

  『キリストにならいて』トマス・ア・ケンピス(1379-1471)