使徒の働き1章12~14節

復活節 第六主日礼拝             2026.5.10
聖書箇所:使徒の働き1章12-14節
説 教 題:「主イエス様を信じて祈る母マリア」
説教者:後藤健一師

「彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。」
使徒の働き1章14節(p.233)

序論)今日は母の日、再来週の聖日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。今朝は聖霊が初代教会に最初に臨まれる直前の弟子達、中でも、母マリアから学びたいと思います。

本論)1.心を合わせて祈った多様な弟子達(1・12~14)
 弟子たちはイエス様が約束しておられた聖霊を「いつも心を一つにして」(使徒1・14)祈り求める事をもって待ち望みました。この祈りは初代教会の働きの根底にいつも脈々と流れていました(使徒2・42、4・29~31、12・5、14・23、16・25、20・36等)。

一方、主イエスの弟子たちを代表していた11使徒は多様でした(12)。彼らは競い合うことがしばしばで(マルコ10・35~45)、これまで心を合わせて祈る姿は見当たりません。頼みの主イエス様が目に見えなくなった今、彼らは分裂してもおかしくありませんでした。また男女の様々な違いもあったでしょう。しかしここでは様々な違いがあるにもかかわらず、彼らは共にいつも心を一つにして祈ったのです。

彼らを一つにしていたのが主イエス様です。復活の主イエスが弟子達に関わり、散らされていた弟子たちを召し集めました。見えなくともイエス様が確かに共におられました(マタイ28・20)。またイエス様から学んだ主の愛の教えと模範がありました(ヨハネ13・4、5、34~35)。主の聖霊の約束 (使徒1・4,5,8)がありました。「父の約束」である「聖霊のバプテスマ」、すなわち聖霊の満たしです。彼らはこれらのイエス様の約束を信じて祈り求め続けました。このキリストを信じ続ける教会の祈りは、今日も続いています。

2.主の御言葉を信じて聖霊を祈り求めた(ルカ11・5~13) 
 教会はいつも必要なものを抱えています。そもそも人間は神を必要としています。しかし主が「求めなさい。そうすれば与えられます」(ルカ11・9)とおっしゃって下さっています。全知全能で、全き愛で最善をなされる主なる神が必要を「良いもの」(ルカ11・13)で最善に満たして下さるどころか、「良いもの」の最高のものである、神ご自身であるご聖霊によって、ご自身が今も一緒に行って下さるのです。私たちから見たら様々に問題が横たわっているように見えても、主が一緒に行って下さるのですから、もはや私たちが思い煩う必要はないのです。主を信頼して、信仰によって先取りして喜び、感謝し、平安の中に生かされたらいいのです。

主は聖霊によってイエス様が目に見えて共におられた時よりもさらに近しく私たちの心のど真ん中にまで来て下さり、私たちの心の隅々にまで聖霊が満ちあふれて下さるのです。そこには神の平安が満ちるのです。それが神の約束です(ピリピ4・6~8)。私たちは主を信じて、主と結ばれて祈る中で喜びと感謝の生活をする事ができるのです(Ⅰテサロニケ5・16~18)。

弟子たちはイエス様が命じられるとおりに、エルサレムという逃げ出したい場所において、共に心を合わせて祈り、約束の聖霊を祈り待ち臨みました。私たちも日々、主に置かれたところ、主に遣わされている生活の現場で、時に状況が思わしくないと思われたとしても、主キリストを信じ続けて、約束の聖霊に満たされて生きる事を祈り続けましょう。

この聖霊のみが人々を回心に導き、全ききよめ(罪を排除し、成長成熟し続ける全き愛の信仰生涯)へと導き、教会を建て上げる唯一の力です(使徒1・8、エペソ5・18)。その特質は愛、喜び、平安(平和)…です(ガラ5・22~25)。

夫婦を親子を家族を、教会を、人々を生かし保ち、救い、幸福にするのは聖霊の神の御業で全て聖霊の恵みです。災害、異端、戦争の影響等による困難な時代だからこそ、改めて、私達は主に信頼し続け、聖霊の満たし、聖霊の御業を祈り求め続け、主に委ねつつお従いして参りましょう。そこに素晴らしい神の御業がなされ神の愛の実が結ばれていきます。試練の中でも私たち教会はキリストを信じ、集まっても、離れていても、共に心合わせて、主に祈り求め続けましょう。

3.主イエス様を信じて祈る母マリアの信仰の姿(使徒1・14)
 さて、今日は母の日ですが、使徒1・14を見るとイエス様を救い主キリストと信じ、神と信じる弟子たちの一員として、主に祈る母マリアの姿があります。そこには、イエス様との33年半の生涯に母として関わってきたマリアが、イエス様を救い主キリストと信じる信仰が証されています。

イエス様の誕生、子ども時代、青年時代、公の時代、十字架と埋葬を知っている母マリア。神を敬う敬虔なユダヤ人信徒のマリアであるにもかかわらず、イエス様を救い主キリスト、神とする弟子達(ヨハネ20・28)と心を合わせて、主なる神様に祈っています(使徒1・14)。その母マリアが祈る姿は、イエス様が「あなたの父と母を敬え」(出エジプト20・12)との十戒の教えと、ご自身が教える教えとに一度も反することなく、矛盾もなく、生涯全うされた事、そして、イエス様は救い主キリストである事の大きな証拠です。

家では罪が表れやすいです。もし、イエス様が外では人々に敬われていても、家では罪の生活を少しでもしていたなら、神を恐れ敬う敬虔な正直なマリアは、イエス様をキリストとし、神とする弟子集団に合流できなかったはずです。このイエス様を主と信じる弟子達と共に祈るマリアの祈りの姿には、イエス様の深い謙遜の生涯、罪なき生涯が証されています。

思えばマリアは神の御子イエス様の受胎時から十字架の死と復活、昇天に至るまで共に生きました。その中で多くの恵みを頂き、同時に主イエス様と生きる中で自分の罪深さにも気づかされたはずです。そのマリアもイエス様とのかかわりの中で、悔い改め、イエス様をキリスト(救い主)と信じ仰ぎ、他の弟子たちと共に心合わせて祈る人になったのです。

神が人となって、罪びとの胎に宿り、人となる事だけでも大きな謙遜であるのに、十字架にて全人類の罪を背負って地獄の苦しみを受けられたイエス様の謙遜。マリアはそのイエス様の十字架の死を目撃し心を刺し貫かれます(ルカ2・34、ヨハネ19・25)。それは母マリアにとって本当に酷な事でした。愛する我が子が苦しむ姿、十字架につけられる姿。どれほどつらかった事でしょうか。しかし、神は耐えられない試練を与えられないお方(Ⅰコリント10・13)、万事を益にしたもうお方です(ローマ8・28)。十字架のイエス様に心苦しめた母マリアの救いは、同じく十字架のイエス様だったのです。イエス様は母マリアのためにも身代わりに死なれました。そして復活しご自身を現わして下さいました。そして使徒1・14では、母マリアも弟たちも、他の弟子たち共に、救い主イエス様を信じて、イエス様の弟子になって、共に心を合わせて祈るまでになったのです(使徒1・9~14)。

かつてはマリアの悲しみと苦痛であったイエス様の十字架が母マリアの救いの根拠となったのです。

結論)私たちも、御子イエス様の十字架の死を覚えつつ、神の大きなご愛に感謝しつつ、へりくだって、主なる神様に祈って参りましょう。私たちもイエス様を信じ仰ぎ、模範としつつ、母に、両親に、人に仕える者でありたいと思います。たとい、母や人々の罪と弱さが見えたとしても、です。

【祈り】天の父なる神様。私たちに母親をお与え下さり、救い主イエス様をお与え下さり、そして、主の御霊である御聖霊様をお与え下さり感謝致します。聖霊に満たして下さい。

出典:©2017 新日本聖書刊行会