マタイの福音書25章31~46節

三位一体・第十七主日礼拝   2026.9.20
聖書箇所:マタイの福音書25章31-46節
説 教 題: 「最も小さい者たちの一人に」
説 教 者:          辻林 和己師

すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』マタイの福音書25章40節 (p55)

序 論)天の御国とご自身の再臨について、「十人の娘のたとえ」(1-13)と「タラントのたとえ」(14-30)を主イエスは語られました。
 最後に主は「分けられる羊と山羊(やぎ)のたとえ」を語られます。
 このたとえを通して示されることは…

本 論)
1.人の子のさばき
 当時、ユダヤ地方では、羊とやぎは一緒に放牧されますが、夕方になると寒さに弱いやぎだけが暖かい場所に移されていました。
 ここでは分けられる人々が「羊とやぎ」(32-33)にたとえられていますが、話全体はたとえではなく、主の再臨のときに現実に起こることを示しています。
 「すべての国の人々」(32)をさばく「人の子」(主イエス)が「栄光の座」(神の座)(31)に着かれます。
 王であられる主イエスは、ご自身の右に置かれた人たちに対して、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。…」と呼びかけられます。(34)
 主は彼らが、ご自身が空腹なとき食べ物を与え、渇いていたときに飲み物を与え、泊まる所や衣服を提供し、病気のときに見舞い、牢まで訪ねて来てくれた、と言われます。(35-36)
 しかし、彼ら自身の記憶にはありません。(37-39)
 主イエスは「…これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、…」(40)「わたし」(主イエスご自身)にしたことだ、と答えられます。
 かつて若き日のサウロ(後の使徒パウロ)がキリスト者(クリスチャン)を迫害したとき、主イエスは「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか.」と言われました。(使徒の働き9章4節p250)
 主イエスとキリスト者は一体なのです。  

2、わたしの父に祝福された人たち
 善行の対象は、助けを必要とするすべての人々であるとと共に、「これらのわたしの兄弟たち」(40)と呼ばれるキリスト者です。と共に、「これらのわたしの兄弟たち」(40)
 主イエスの祝福のことばが先にあるように(34)、キリスト者は主の恵みによって救われ、祝された者たちです。
 善行が天の御国(神の国)に入れられる条件ではありません。主イエスを信じる者の内に聖霊が働いておられることにより、主の恵みへの応答として善行がなされます。
 善行は主によって救われたことの現われなのです。
 逆にやぎにたとえられた人たちは、主イエスの言われる善行をしていませんでした。(41-43)
 彼らは主イエスに対して、それらの善行を怠ったとは、思っていませんでした。(44)
 主は「…わたしにしなかったのだ。」(45)と答えられます。
 最後に、主イエスはやがて確実にやって来る再臨のとき、栄光の御座における厳かなさばきのことばを告げられます。(46)

結 論) 羊かやぎか。ここでは人種、国籍、宗派、年齢、職種、性などの区別は一切問われていません。
 さばきの唯一の基準はいかに愛のわざに生きたかに尽きます。
 25章の「十人の娘のたとえ」(1-13)は、再臨される主イエスへの「信仰」、「タラントのたとえ」(14-30)は、与えられた賜物を生かす「務めを果たしていくこと」の大切さを示しています。
 そして、この「羊とやぎのたとえ」は「愛のわざ」の大切さを示しています。
 主イエスの十字架と救いの恵みにあずかったすべての人々の最も小さい者の一人にしたことをも主は「わたしにしたこと」と覚えられます。
 助けを必要としている人たちへの無私の愛、それは主イエスへの信仰からあふれ出る愛です。
 主からの愛を受け、そのような人たちへの愛のわざを行う者とならせていただきましょう。  

  (参考)
  大関 和(ちか) (1858-1932)

 『靴屋のマルチン』(『愛あるところに神あり』) 
 トルストイ(1828-1910)

 国際飢餓対策機構 設立時に示された聖書のことば
 イザヤ書58章7節(p1266)