三位一体 第十二主日礼拝 2026.8.16
聖書箇所: マタイの福音書24章32-51節
説 教 題: 「その日についての二つのたとえ」
説 教 者: 辻林 和己師
天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。マタイの福音書24章35-36節 (p52)
序 論)オリーブ山におられた主イエスは弟子たちに、「人の子(主イエスご自身)の到来」(主の再臨)について語られました。
さらに主は再臨について語られます。
主のみことばを通して示されることは…
1.再臨の時
常緑樹の多いパレスチナ地方では例外的ないちじくの木の枝から「葉が出て来ると」夏が近いことがわかります。(32)
同じように「これらのこと」(苦難や偽キリストの出現等)が起こることにより、主イエスの再臨が近いことがわかります。(33)
しかし、これまで主が語られてきた様々な苦難やしるし(4-14)がすべて起こるまで、この時代は終わりません。(34)
そして主イエスが語られたことばは消え去ることがありません。(35)
主が言われる再臨も確実な出来事です。
ただその日、その時はいつなのかは、天の御使いたちも子(主イエス)も知りません。(36ab)
御子イエス様は、「その日、その時」を父なる神様に委ねておられます。(36c)
主の再臨の時は、ノアの洪水の時に似ています。(37)
ノアの時代、洪水前に人々が神様に心を向けず、日常の生活に埋没しているところに突然、その日は訪れました。 (38)(創世記7章1-24節p10)
自分の生活だけに没頭していた者たちは、洪水が押し寄せるまで、それが起こることがわかりませんでした。
2、主の再臨に備える
畑で働き、臼を引くというありふれた生活の最中に、主イエスの再臨があり、救いとさばきの時が訪れるのです。(40-41)
畑で共に働いていた二人の男性も、一緒に臼をひく間柄の二人の女性も、救われる者とさばかれる者に分けられます。(どちらも「取られ」る方が、救われる者を示している。)
だから、主は「…目を覚ましていなさい。…」(42)と警告されます。
ここでの「目を覚ましている」は、再臨される主イエスを信じ、待ち望むことです。
続いて主イエスは、ご自身を「泥棒」に、弟子たちを「家の主人」にたとえて語られます。(43)
泥棒がいつ来るかわかっていれば、家の主人は侵入を防ぐことができます。
しかし、実際にはわからないから、いつ狙われても大丈夫なようにしておく必要があります。
同じように、主の再臨を待つ弟子たちも、いつも用心し、備えていなければなりません。(44)
さらに主イエスは備えの大切さをたとえで説明されます。(45-51)
弟子たちは、主人(主イエス)に対しそれぞれの務めを果たすことを期待されている「忠実で賢いしもべ」(45)の立場にあります。(45-46)
そのしもべは、やがて主人から大きな信頼を得、もっと大きなことを任されるようになります。(47)
しかし、油断し、自分の立場を悪用して仲間を打ちたたいたり、好き勝手に宴会をしたりしている「悪いしもべ」(48)は、思いがけない時に帰って来る主人から厳しく処罰されることになります。(48-51a)(「厳しく罰する」(51a)の動詞の原語は「真っ二つに切る」という意味)
その時、そのしもべは激しく後悔することになります。(51b)
この「悪いしもべ」は、忠実に歩まず、自己中心となり主の再臨を待ち望んでいない人を示しています。
結 論)主イエスがいちじくにたとえて語られたように、「世の終わりの前兆」を知ることが大切です。(32-35)
そして、私たちは、決して消え去ることのない「わたしのことば」(35)、「御国のこの福音」(14)が記されている聖書のことばを聞き続け、主イエスの再臨を待ち望みながら、日常生活を送ります。
私たちは、主の十字架と復活によって罪赦された者です。聖霊によって、主の御前に「忠実な賢いしもべ」とされ、父なる神様に祈り、主と教会に仕えてまいりましょう。
主イエスを証しし、愛のわざに励み、それぞれの務めを果たしてまいりましょう。
