三位一体 第六主日礼拝 2026.7.5
聖書箇所: マタイの福音書23章1-12節
説 教 題: 「自分を低くする者」
説 教 者: 辻林 和己師
あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。 マタイの福音書23章11-12節 (p48)
序 論)パリサイ人やサドカイ人たちの問いに、主イエスは答えられました。(22章15-45節p46)
主のお答えやみことばを聞いた彼らは、全く沈黙してしまいました。(22章46節)
その後、主イエスは群衆と弟子たちに語られます。(1)
主のみことばを通して示されることは…
1.言うだけで実行しない
ここで主イエスが言われた「モーセの座に着いている」(2)とは、律法学者やパリサイ人が、旧約聖書の律法を教える立場にある、という意味です。
主は彼らに対し「…彼らは言うだけで実行しない。」と彼らの「言行不一致」を指摘されました。(3)
律法に通じていると自負していた彼らは、主イエスが教えてくださった律法の中で一番大切な戒め、「神を愛し、隣人を愛する」ことを実行してはいませんでした。(マタイの福音書22章35-40節p47)
パリサイ人たちは、職業等の事情でどうしても律法を守ることが出来ない人にそれを押し付け、その人たちをさばいていました。
人に負いきれない重荷を負わせ、「自分は指一本貸そうとしなかった」のです。(4)
彼らの行いの動機は「人に見せるため」だったのです。(5a)
「聖句を入れる小箱」(5b)は祈りの時などに額や腕に付けるものでした。(申命記11章18節p335)
彼らは、小箱を大きくし、「衣の房」(5b)を長くしました。(民数記15章38-41節p267)
それらのことによって、自分たちが(旧約)聖書を重んじ、律法に忠実であるかのように見せていました。
さらに主イエスはパリサイ人たちが「人からの栄誉と賞賛」を求めていると言われます。
彼らは、「宴会では上座」、「会堂では上席」を好み、「広場であいさつされること」、「人々から先生と呼ばれること」を好みます。(6-7)
2、皆に仕える者、自分を低くする者
続いて主イエスは「しかし、あなたがたは…」と弟子たちに教えられます。(8)
ここでの「先生」の元の言葉(ヘブル語、ギリシア語)では「ラビ」です。律法を教えてくれる教師に対し、尊敬を示す、呼びかけの言葉でした。
ここでの「自分たちの父」(9a)は家庭の父親という意味ではなく、律法の先生(ラビ)のことです。
8-9節のことばは、後の教会に教師がいてはならないという意味ではありませんし、家庭で父を敬ってはいけないという意味でもありません。
私たちにとって、「ただ一人の父」は、「天におられる父」、父なる神様です。(9))
私たちにとっての「永遠の師(生活の導き手)」は、ただお一人、イエス・キリストだけです。(10)
今日の教会に教師、神父、牧師の役職はありますが、本質は「みな兄弟」です。(8)
最後に、主イエスは弟子たちの生活は人に仕えるという実践であることを教えられます。(11)
主イエスは、ただ一人の、最高の師であられましたが、最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗われ、彼らに仕えられました。(ヨハネの福音書13章4、14節p211)
このように主は、へりくだって人に仕える奉仕の心の大切さを身をもって教えてくださったのです。
結 論)教会と神の国において、「高くされる者」は、いつも「自分を低くする者」です。(12)
私たちは、自分の思いや力でへりくだることはできません。それは、私たちの罪のために十字架で死なれ、復活された主イエスが与えてくださる聖霊の力によってです。
父なる神の右の座におられる主イエスと私たちは聖霊によって結ばれています。
キリストによる愛の注ぎと謙遜の心をうちにいただくとき、私たちの心が変えられ、皆に仕える者、自分を低くする者へと変えられていきます。
人の目ではなく、主の愛のまなざしの中で、主と共に、神を愛し、隣人を愛する歩みを続けてまいりましょう。
