マタイの福音書13章13~24節

三位一体 第七主日礼拝          2026.7.12
聖書箇所: マタイの福音書23章13-24節
説 教 題: 「偽善の罪」
説 教 者:     辻林 和己師

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。    マタイの福音書23章13節 (p48)

序 論)宮(神殿)におられた主イエスは群衆と弟子たちに語られました。(1-12)
 続いて主は「律法学者、パリサイ人たち」に向かって「わざわいだ、…」(12-24)と告げられます。
 主のみことばを通して示されることは…

1.主の痛みと嘆き
 「わざわいだ」の原語(ギリシア語)は「ウーアイ」で、このことばは、「ああ」という痛みの叫びを表す間投詞です。
 主イエスは自分に敵対する者たちが受けるさばきを思われ、心を痛め、嘆かれました。
 「天の御国」(13)は、「神のご支配」という意味です。
 「閉ざしている」の「閉ざす」はここでは、「ぴしゃりと閉めてしまう」ということばが使われています。
 律法学者やパリサイ人たちは、多大の労を費やし旧約聖書を学びながら、自らを天の御国から閉め出し、その影響で他の人たちも入れなくしていました。
 彼らは大きな犠牲を払い、異教徒からユダヤ教への「改宗者」(15)を獲得していました。しかし、律法を形式的に守ることだけを教え、自分たちよりもっと救いから遠ざけていました。(「ゲヘナ」(15)は、神様との交わりが失われている、「滅びの場」。) 
 彼らは誤った教えを熱心に伝えていたのです。
 さらにパリサイ人たちは、「目の見えない案内人」となり、神殿や祭壇を指す誓いは拘束力を持たないが、「神殿の黄金」(16)や「祭壇の上のささげ物にかけて誓う」(18)義務があると教えました。(16-18)
  彼らは神への誓いをおろそかにしていました。
 彼らは神殿より黄金を、祭壇よりささげ物を尊びました。
 それとは反対に、主イエスは、黄金より神殿を、ささげ物より祭壇を尊ばれたのです。(17、19)

2.偽善の罪の実態
 主イエスは、その神殿や祭壇よりも、神ご自身を尊ばれました。(20-22)
 さらに主は「十分の一」のささげ物の例を挙げて、彼らが「律法の中ではるかに重要なもの」(23)をおろそかにしていると指摘されます。
 十分の一のささげ物は、地の産物や家畜の十分の一を聖別して神様にささげる制度でした。(申命記14章22-29節p341)
 神殿で奉仕する祭司やレビ人の生活を支え、貧しい人々に施すために用いられました。
 それは、「正義とあわれみ」の表われでした。また、それは自分の収入がすべて神様から授かった預り物であることを告白する「誠実」のしるしでした。(23)
 しかし、パリサイ人たちは十分の一のささげ物に対しても「愚かで目の見えない者」(16)となっていました。
 「ハッカ、イノンド、クミン」(23)といった、料理や薬に用いられる庭草まで含めた詳細な規定を設けました。
 そのような細かい規定を重視し、はるかに大切な「正義とあわれみと誠実」をおそろかにしていました。(23)
 それは、「ブヨをこして除くのに、らくだは飲み込んでいる」ようなものだと主イエスは言われます。(24)
 「ブヨ」は、「忌むべきもの」とされていました。(レビ記11章20節p194)
 パリサイ人たちは、それが飲み物に入らないように、神経質に布でこしているが、パレスチナ地域では最大の動物である「らくだ」は飲み込んでいる。彼らがしていることはそのようなことだと、主は指摘されたのです。
 それは、彼らが本末を転倒し、「しなければならないこと」(23)を見失っている姿でした。

結 論)主イエスは続いて、パリサイ人たちは「杯や皿の外はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。」(25)と指摘されます。
 「杯や皿の外」は外見的な宗教行為のことです。それとは裏腹に「内側」(心)は罪に汚れていました。
 それで主は「杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。」(26)と言われます。
 人の心がきよくなれば、「外側」(行い)もきよくなるのです。
 しかし、私たちは自分の力で内側をきよめることはできません。
 それは、主イエスの十字架の血と聖霊の力によります。(ヨハネの手紙 第一 1章7節p478)
 聖霊による神の愛の注ぎとへりくだりの心をうちにいただくとき、私たちは心が変えられ、きよめられていくのです。(ローマ人への手紙5章5節p304)
 私たちの永遠の「教師」(8)である、キリストにならい、きよめの恵みにあずかりつつ歩みましょう。