三位一体 第五主日礼拝 2026.6.28
聖書箇所: マタイの福音書22章41-46節
説 教 題: 「ダビデの子、ダビデの主」
説 教 者: 辻林 和己師
イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』と言っているのですか。…」 マタイの福音書22章43-44節 (p47)
序 論)22章には、主イエスがパリサイ人や宗教指導者たちに語られたたとえや彼らとのやりとりが記されています。
彼らは、主に問い、主は彼らに答えられました。
そして、今回の箇所では、主イエスがパリサイ人たちに質問されます。(41)
主と彼らとのやりとり、主のみことばを通して示されることは…
1.ダビデの子であり、ダビデの主であるお方
主イエスは、キリスト(救い主)は、誰の子(子孫)かと、尋ねられます。(42ab)
パリサイ人たちは「ダビデの子です。」と答えました。(42cd)
ダビデは、このときから約1000年前に、イスラエル王国の栄光と繁栄の基礎を築いた王です。
主イエスが地上に来られたとき、当時のユダヤ人たちは救い主キリストはダビデの子、ダビデの子孫としてお生まれになると信じ、待ち望んでいました。(サムエル記 第二 7章12-17節p551)
しかし、宗教指導者たちはイエス様を救い主と信じ、受け入れることができませんでした。人々も「ダビデの子」は、ユダヤの国をローマ帝国の圧政から解放してくれる軍事的・政治的メシア(救い主)を期待していたのです。
続いて、主イエスは、詩篇110篇1節(p1053)を引用してパリサイ人たちに尋ねられます。(43-45)
『主は、私の主に…』とダビデが歌うように、この箇所には二回、「主」ということばが出てきます。(44a)(ヘブル語では違うことばが用いられている。)
最初の「主」は父なる神様のことです。「私の主」は、イエス・キリストです。
王であり、詩人であるダビデが、「父なる神様が、私の主であるイエス・キリストにお告げになった…」と歌っているのです。
「あなたは・・・」(44b)は父なる神様から御子イエス様への呼びかけであり、「わたしの右の座」(44b)は父なる神の右の座のことです。
主イエスは、旧約の預言通りの救い主として、ダビデの子(子孫)としてお生まれになりました。そして、ダビデが「私の主」と告白し、仰ぎ見る神の御子です。
2.主イエスは父なる神の右の座に着かれた
パリサイ人たちは、主イエスの問いに答えることができませんでした。(46)
もうだれもあえて主に問う者はいなかったのです。
彼らは、主イエスを「先生」と呼びましたが、一度たりとも「主」とは呼びませんでした。
彼らが主に質問したのは「ことばの罠にかける」ためだったのです。(15)
彼らは、これ以上、主に尋ねることはしませんでしたが、主に対する敵対心を増していきました。
宗教指導者たちの主イエスに対する敵対心やねたみが後に主を十字架の死へと追いやりました。
主イエスは十字架で死なれましたが、父なる神様は、主を復活させられ、ご自身の右の座に着かせられたのです。(「右」は一番近い所を示す。)
主の十字架と復活、昇天と着座は、神様のご計画の中でなされたことでした。
聖霊降臨(ペンテコステ)の後、使徒ペテロは、主イエスが引用された同じ詩篇110篇を引用して説教しました。
「このイエスを、神はよみがえらせました。…神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒の働き2章32-36節p235)
神様がイエス様を復活させられ、主とされました。そして、主イエス様の十字架の死と復活によって、私たちは罪赦され救われたのです。
結 論)ダビデが詩篇110篇を通して預言したことは、主イエスの十字架と復活、昇天と着座によって実現しました。
ダビデは「御霊によって」(聖霊によって)(43)、イエス様を「私の主」(44a)と呼びました。
私たちも、聖霊のお働きによって、イエス様を主と告白することができたのです。(コリント人への手紙 第一 12章3節p344)
ダビデが「私の主」と呼んだイエス様は、私たちにとっても「私の主、私の神」です。
イエス様の救いのみわざの恵みにあずかり、信仰告白に導かれた恵みを覚え、さらに主に心を向け、仰ぎ見つつ歩みましょう。(テモテへの手紙 第二 2章8節p426)
