ルカによる福音書12章35~48節

「主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。」(ルカ12章37節 p.110)

序 論)ルカによる福音書12章は、イエス様が弟子たちや群衆が語られた言葉が多く記されています。前半部分では、現在をいかに生きるべきかが二つのことをきっかけとして教えられています。35節からの後半部分では、「人の子」が再びおいでになる将来の時に対してどう備えるべきかが示されいます。

本 論)1、「人の子」は必ず来られる
「人の子」(40)は、ダニエル書7章13-14節から来た言葉です。
「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、 … 彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、 なくなることがなく、その国は滅びることがない。」(ダニエル書7章13-14節 p.1234)
イエス様は、ご自分のことを「人の子」と言われました。そしてここでは、再臨されるご自分のことを「人の子」と呼び、ダニエルが見た「人の子」がご自身であることを示されました。されにご自分のことを「主人」、イエス様に従う弟子たちを「僕」にたとえられました。「主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき」(36)は、復活後、天の父なる神のもとに帰られ、神の右の座に着かれたイエス様が、もう一度この地に来て下さるときのことです。「すぐあけてあげようと待っている人」(36)、「目を覚ましているのを見る僕」は、イエス様のご再臨の約束を信じ、待ち望んでいる弟子たちのことです。備えをしている弟子たちは「さいわいである」とイエス様は言われます。「腰に帯をしめ…給仕をする」(37)のは本来は、僕の仕事です。ところがイエス様はここで「主人が…」と言われ ています。イエス様ご自身が、そのようにしてあなたがたに仕えると言っておあれます。主イエスの再臨を待ち望んでいた信仰者には再臨されるイエス様が、そのような恵み報い、幸いを与えて下さるのです。39節では、弟子たちは「家の主人」にたとえられ、
イエス様が「盗賊」にたとえらています。盗賊がいつ来るかわからないように「人の子」はいつ来られるかわからず、「思いがけない時」に来られるのです(40)。
イエス様は、弟子たちに仕えられました。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコによる福音書10章45節 p.111)
イエス様は、弟子たちに仕えられ、私たちの「あがない」のため、ご自分の命を与えて下さいました。それが十字架での死、です。イエス様が、ご自分の命を捨てて下さったので、その救いを信じる私たちは罪赦され、永遠の命に生かされるのです。再臨されるイエス様もそのように弟子たちに「給仕」して下さる(仕えて下さる)のです。そのようなへりくだった謙遜なお方のご再臨が必ずあることを私たちは信じ、私たちは待ち望んでいるのです。

2、僕は責任を負う
イエス様が、このたとえを話されたのは、すべての弟子たちのためでした(41)。主人の帰りを待っているという緊張感を失ってしまった僕の姿が語られています(45)。「男女の召使たちを打ちたたき」は自分が主人になったかのように錯覚して、同じ僕仲間に威張り散らし、自分に従わせようとすることです。
「食べたり飲んだりして酔いはじめる」(45)は、主人から他の人を養うために預けられているものを、自分のものであるかのように勝手に用い、自分の欲望をかなえようとす ることです。私たちがこのよう悪い管理人(僕)になってしまう、根本的な原因は「主人の帰りが遅いと心の中で思う」(45)ことです。キリストの再臨と最後の審判、この世の終わりと神の国の完成に対する信仰が薄められたリ、弱くなってしまうことです。
自分のもとにいる人々に暴力を振るい、ひたすら自分の欲望を満たそうとする悪い僕の姿は、罪に支配された人間の有様です。
主イエスの再臨においてその前に立たなければならないのは弟子たちだけではありません。主の再臨の際には、そのときまでに生きている者とすでに死んでしまった者も、 すべての人々が、主のみ前に立ち、最後の審判を受けるのです。
その審判において、神様の御心を知らせれられている信仰者と、それをまだ知らない、信仰を持ってない人々とではどちらが厳しい審きを受けるのか、それは信仰者の方だと語ります(47-48)。

結 論) 主イエスがここで求めておられるのは、主イエスの再臨において、神様のご支配、神の国が完成することを信じて、それを待ち望むことです。これは「ただ、神の国を求めなさい」(31)という言葉につながります。主人の思いを知って生きること、知らずに生きること、どちらが幸いであり、神様の喜ばれることでしょうか。私たちに示されている主人の思い、神様の御心とは、独り子の命すら与えて下さった父なる神様の愛の御心です。それは厳しい罰を恐れてびくびくして生きることではありません。むしろ神様が私に多くのものを与え、多くのものを任せて下さった、その恵みと信頼に感謝して、私たちも神様に信頼して生きていくことです。
天の父なる神様が、私たちに必要なものをご存知であり、それを与えて下さるという信頼に生きるところに、思い悩み、心配からの解放が与えられるのです。主人の思いを知ってそれに応えて目を覚まし、ご再臨を待ち望んで生きる者にこそ、このような幸いが与えられています。イエス

様は私たちをこの幸いへと招いておられます。

来週からアドベントに入ります。日本語では「待降節」

と言います。もともとは「到来」を意味する言葉です。

アドベントは、クリスマスに備え、それを待ち望むときであり、主のご再臨を待ち望むことをさらに確かにするときでもあります。救い主イエス・キリストが来られる、それを私たちは待ち望むのです。7節 新改訳聖書)