ルカによる福音書11章27~32節

さて群衆が群がり集まったので、イエスは語り出された、「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。…」ルカ11章29節

序 論)悪霊の働きによって口が利けなくなった人がいましたがイエス様は、この人から悪霊を追い出して癒されました。それを見た群衆の中のある人たちは、イエスの力は悪霊の頭ベルゼブルの力によるのだと、悪意を込めて言いました(14-15)。それに対してイエス様は反論されました(17-26)。さらに語られたことは…

本 論)1.神の言葉を聞いてそれを守る人
 イエス様のお話しを聞いていた群衆の中のある一人の女性が声を張り上げて言いました(27)。これは母マリヤに対してではなく、主イエス様に対する感嘆の叫びです。彼女はイエス様が悪霊につかれた人を癒されたことを見、また語れたみ言葉を聞いて、何と素晴らしい方なのだろうと思いました。そしてその思いを、女性らしく、このような素晴らしい方を産み、育てたお母さんはなんとめぐまれた人でしょう、という言い方で表現したのです。しかし、イエス様は、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである。」(28)とお答えになりました。本当に恵まれた(新共同訳聖書では「幸いな」)人とは、神の言葉を聞き、それを守る人です。そういうと、私たちはそれを神様からの掟や戒めを守る、実行する、という意味にのみ受け止めがちです。でもこの「守る」という言葉には、「しっかり保管する」とか「見守る」という意味も含まれています。「神の言葉を聞いて守る」は神の言葉を聞いて、その言葉をしっかりと心の内に受け止め、そのみ言葉を大切にし、それに聞き従っていくことを意味しています。そうしてこそ本当に恵まれた幸いな生き方が与えられます。
神学者のアウグスティヌス(AD354-430)は主イエスのこの言葉から「これはマリヤがイエスをその胎に宿したように、彼(主イエス)をその心に宿す者の幸福を示されたのである。」と霊想しています。「神の言葉を聞いてそれを守る」とは、イエス様を信じ、心の内に迎え入れることです。主イエスはその人の内に生きて下さいます。そこにこそ、罪や悪霊の支配から解放された、「聖霊の宮」としての本当に幸いな歩みが始まるのです。(Ⅰコリント6章19節 p.262)

2.預言者ヨナやソロモン王にはるかにまさるお方
 群衆の中のある人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めました(16)。「天からのしるし」とはイエス様が神様が送られた救い主であると納得するための目に見える証拠です。それに対してイエス様は、しるしを求める「この時代」(29)の人々に「ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられない」(29)と言われました。旧約聖書のヨナ書で語られているようにヨナは、アッシリヤの都ニネベの人々に対するしるしとして主なる神様によって遣わされました。(ニネベは現在のイラクのモスル地域と言われています。) ヨナは、ニネベの町の人々の罪が甚だしく大きいので主なる神様が怒っておられ、この町はあと40日で滅びる、と神様のみ言葉を告げたのです(ヨナ書3章1-5節 p.1282)。ヨナは何か奇跡を行ったわけではなく、み言葉を告げただけでした。「ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めた」のです(32)。「ニネベの人々に対してヨナがしるしとなり」ました(30)。
そして「人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう。」と主は言われます。「人の子」というのはイエス様がご自身のことを言われるときに使われる言葉です。そのしるしはヨナのしるしと同じように、ただ神様のみ言葉を告げることによって与えられます。ニネベの人々がヨナの宣教、神の言葉を聞くことによって信じて悔い改めたように、この時代の人々も、主イエスのみ言葉を聞くことによって信じて悔い改めることを求めておられました。
主イエスはさらに「南の女王」について語られました。この人は「シバの女王」と呼ばれています(旧約聖書 列王記10章1-13節p.494)。(シバはアラビア半島の南端、今日のイエメン辺りではないかと言われています。)彼女は知恵に満ちた人ソロモン王のことを伝え聞き、エルサレムまでわざわざ会いに来たのです。シバの女王はソロモンの知恵を、ニネベの人々はヨナの説教を聞いて受け入れ信じたのに、イスラエルの人々は主イエスの言葉を聞き、そのみわざを体験しても信じようとしませんでした。イエス様は、ソロモン王や預言者ヨナよりもはるかにまさるお方、神の御子、救い主として地上に来て下さったお方でした(31,33節)。主イエスは、当時の人々にしるしを求めることをやめて、私の語る言葉を神の言葉として聞き、それをしっかりと受け止め、信じる者となりなさいという意味を込めて語られたのです。「ヨナのしるし」は、「宣教」ともう一つの意味が込められている言葉です。ニネベに行く前、神様の命令に逆らったヨナは、大魚に呑み込まれて三日三晩その腹の中にいました(ヨナ書1章17節 p.1282)。その後、ヨナは生きて陸に吐き出されます(ヨナ書2章10節 p.1282)。そして、ヨナはニネベに行って宣教し、人々は悔い改めました(ヨナ書3章)。
イエス様は、「ヨナのしるし」をご自身の復活のことを重ねて語っておられます。「すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。」(マタイ12章40節 p.19) 主イエスは十字架にかかられ墓に葬られて、三日後に復活されました。ヨナの出来事は、主の十字架の死と葬り、復活の予表でもあります。

結論)復活されたイエス様は、弟子たちと共に働かれ(マルコによる福音書16章20節 p.81)、イエス様を神の御子、救い主と信じる人たち(キリスト者)が次々と起こされていきました。異邦人であるシバの女王やニネベの人々が、当時のイスラエルの人々をさばきの場で罪に定めると言われた主イエスの言葉が実現したかのように、AD70年にユダヤの国はローマ帝国によって滅ぼされました。しかし、イエス様を信じる人たちは世界中に増え広がり、教会の歴史は2000年間、続いてきたのです。
 イエス様は、当時の「邪悪な」人々の不信仰の罪だけでなく、すべての人の罪の身代わりとして、苦しみを受け、十字架にかかられ、復活されました。今も、イエス様は、私たちが信じて、救われるように働きかけられ、聖書の言葉を通して語りかけておられます。 聖書の言葉に触れ、イエス様にお出会いできた幸い、日々聖書を読み、神の言葉を聞くことができる幸いをさらに覚え、主イエスをさらに求め、み言葉に聞き従う恵まれた歩みを続けてまいりましょう。