わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。 マタイの福音書5章17節 (p7)
序 論) マタイの福音書5~7章まで、主イエスの「山上の説教」のみことばが記されています。
主は「八福の教え」(2-12)を語られ、弟子たちに「あなたがたは地の塩です。…世の光です。…」と語られました。(13-17)
その後、主イエスは律法について解き明かされます。
今回の箇所を通して示されることは…
1.律法を成就するため
「律法」は旧約聖書の創世記から申命記までの「モーセ五書」を指しています。
「預言者」は旧約聖書の預言書を指しています。
「律法や預言者」(17)は旧約聖書全体を表しています。
パリサイ人たちは主イエスが律法や預言者を軽視していると思い込んでいました。
しかし、主はそれを「廃棄するためではなく成就するために来たのです」(17)と語られました。
律法のすべてはその有効性を失うことはなく、全部が実現すると言われます。(18)
当時のユダヤ人たちは特に律法を613の戒めにまとめていました。それを守ることによって義を得られると思っていました。
しかし、誰も律法を完全に守ることができる人はいなか ったのです。
主イエスは地上の生涯において律法を完全に守られました。
そして、律法を守ることができない罪人が受けるべき刑罰を自らが身代わりとなって十字架で受けてくださいました。
旧約聖書で語られているメシア(救い主)預言、そして救いの到来の預言を主イエスはご自身の生涯の全体において成就してくださったのです。
「律法学者」は律法を研究し、ユダヤ人たちの宗教生活の指導する人たちでした。「パリサイ人たち」は几帳面に律法を学び、実践しようとしていた人たちです。
主イエスは弟子たちにそのような彼らより「まされる義」 (より優れた義)を持つ必要があると言われます。(20)
2. 怒りと和解
主イエスは律法の真の意味を解き明かされます。
これまでは「殺してはならない…。…」(21)という戒めにより、殺人という行為だけがさばかれてきました。
(「十戒」の中の第六の戒め) (出エジプト記20章13節p135、申命記5章17節p324)
しかし、主は人(兄弟)に対する怒りやさげすみも心の内の殺人であり、神のさばきの対象である、と言われます。 (22)
「最高法院」はエルサレムにある最高裁判所のことです。
ここでの「ゲヘナ」(22)は永遠のさばきの場を意味しています。
続いて、主イエスは人間関係の破れに対して積極的に和解をもたらすよう命じられます。(23-24)
兄弟との和解は祭壇に供え物をささげることを中断してでも優先すべきことだと言われます。
そして、自分を訴える人と和解することも緊急にすべきことだと語られます。(25-26) (「一コドラント」(26)は当時のローマの最小の青銅貨)
ここでの「あなたを訴える人」は神様、「裁判」は神のさばきを示していると受け止めることができます。 (神様は「原告、裁判官、証人」でもあられる。)
主イエスは神様と私たちとの間に和解をもたらしてくださいました。(ローマ人への手紙5章10-11節p304)
結 論)律法(特に「十戒」出エジプト記20章1-17節p.134)は人の罪を明らかにします。
そして、それは人をキリストに導く役目をします。(ガラテヤ人への手紙3章23-26節p378)
主ご自身が十字架の死により、私たちの罪の赦しを与え神との交わりを回復させてくださいました。
主イエスを救い主と信じる者は神の子とされ、神の愛の注ぎをうちにいただきます。
十字架で死なれ、復活された主イエスは律法を成就してくださいました。
主イエスは律法(戒め)の中で一番大切なことは、神を愛し、隣人を愛することだと言われます。 (マタイの福音書22章34-40節p47)
主イエスを信じ、従う者の心を神様は造り変え、神を愛し、人を愛する者へと成長させてくださるのです。
自分の罪を認め、悔いし、砕けた心をもって主の御前に出て、主のあわれみにより頼みつつ歩みましょう。