マルコの福音書1章21~28節

三位一体 第23主日礼拝     2026.11.1
聖書箇所:マルコの福音書1章21–28節
説 教 題: 「権威ある者」
説 教 者:     辻林 恭枝師

人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。 
マルコの福音書1章27節(p66)

序 論)
 私たちは日々、多くの言葉や情報に囲まれて生きています。人々の声、SNSやメディアから流れてくる情報、あるいは自分自身の内側から聞こえてくる「お前はだめだ」「どうせ無理だ」という不安や葛藤の声。私たちは常に何らかの言葉の影響を受け、その言葉に導かれたり、時には支配されたりしながら歩んでいます。
 今日の聖書箇所には、当時の人々が驚きをもって聞いた特別な言葉が記されています。
 イエス様がカペナウムの会堂に入り、教え始められたとき、人々はその教えに驚きました。なぜなら、その言葉には、それまで聞いたことのない「権威」があったからです。
 律法学者たちも神の言葉を教えていました。しかし、イエス様の言葉は単なる知識や解説にとどまりませんでした。その言葉には人の心を揺り動かし、悪の力を退け、人を縛りつけるものから解き放つ力がありました。
 そして人々は、その権威ある言葉の背後におられる方が誰であるかを知ることになります。今日の箇所は、イエス様がまことに「権威ある者」であることを明らかにしています。

本 論)
1、キリストの言葉にある真の権威(21〜22節)
 安息日にカペナウムの会堂に入られたイエス様は、人々に教えを始められました。マルコ福音書において、イエス様の公生涯の最初の公の行動は「教えること」でした。(21)
 当時の律法学者たちの教え方は、昔の有名なラビが教えた引用や前例に頼るものでした。彼らの言葉は形式的で、規律や義務で人々を縛ることはあっても、魂を生かす力には欠けていました。
 しかし、イエス様の言葉は違いました。イエス様は神の御子であり、真理そのものです。誰かの言葉を引用して自分を飾る必要はなく、ご自身の神としての権威をもって神の御心を直接語られたのです。(22)
 私たちの人生にも、人間的なアドバイスやルールの束縛を超えた「イエス様の権威ある言葉」が必要です。世の中の価値観や比較、批判の言葉は私たちを委縮させますが、イエス様の言葉は魂の奥深くに届き、私たちを真理の光へと導きます。イエス様が「子よ、あなたの罪は赦された」(マルコ2:5)、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)・・・と語られるとき、そこには苦しむ人々を招き救いと安息を与える神の権威が働いているのです。  

2、悪の力を打ち破り、解き放つ力(23〜26節)
 イエス様が教えておられると、会堂にいた「汚れた霊につかれた人」が叫び出しました。(23)
 この出来事が起こったカペナウムは、イエス様の多くの御業を見ながらも悔い改めようとしなかった町でした。(マタイ11:23-24)その霊的状態は、汚れた霊に支配された人が会堂で周囲と何の違和感もなく礼拝に参加していたことにも表れています。本人も自ら解放を求めていたのではなく、自分がどれほど深く束縛されているかさえ気づいていなかったのです。
 しかし、汚れた霊はイエス様が「神の聖者」であることを即座に見抜き、恐れおののきました。(24)光が闇を暴くように、イエス様の聖なる権威の前に、悪の力は正体を隠し通すことができなかったのです。
 イエス様は汚れた霊に対して「黙れ。この人から出て行け」と命じられました。(25)「黙れ」の原語は、「猿ぐつわをはめろ」を意味する強い言葉です。これは汚れた霊との対話や交渉を一切拒否する態度を示しています。
 イエス様は、汚れた霊による証言を受け入れることなく、その口を封じ、ただちに人を解放しようとされたのです。
 すると汚れた霊は、その人を引きつけさせ、大声をあげて出て行きました。(26)それは悪の力がいかに強大であったかを示す最後の抵抗でした。しかし汚れた霊はイエス様の権威ある命令には逆らうことができず、完全にその人から去って行かざるを得ませんでした。
 こうして、イエス様は無意識のうちに汚れた霊の支配下に置かれていた人を解放し、神の国の力が悪の力に勝利することを明らかにされたのです。
 ここで注目したいのは、イエス様がお言葉一つで汚れた霊を屈服させたという事実です。複雑な儀式や道具は一切必要ありませんでした。ただ「権威ある言葉」によって、長年囚われていた一人の人間が、悪の支配から完全に解き放たれたのです。 
 私たちもまた、自分の力ではどうしても抜け出せない「暗闇」や「縛り」を抱えることがあります。怒りや恐れ、過去の傷、やめられない罪の習慣など、心を痛めつける声に脅かされるときがあります。しかし、イエス様は私たちが闇の支配の中に留まることを望まれません。イエス様は力ある御言葉をもって私たちの生活に介入し、悪の力を退け、私たちを解き放ってくださるお方です。

結 論)
 イエス様の教えと汚れた霊の追い出しを目撃した人々は、「これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」(27)と言って驚き合いました。
 この出来事を通して、イエス様の噂は一気にガリラヤの全地域に広まっていきました。(28)権威ある言葉と悪の力に対する勝利のニュースは、隠しておくことができず、瞬く間に地域全体へと広がっていきました。
 この出来事を皮切りに、イエス様の権威をめぐって熱狂する民衆と警戒する宗教指導者の反応が本格化していくことになります。
 イエス・キリストの権威は、私たちを支配して押さえつけるためのものではなく、私たちを愛し、真の自由と回復を与えるための権威です。
 私たちの人生の主権者は、世の不安や恐れではなく、悪の力さえも従わせる主イエス・キリストです。自分の弱さや状況の難しさに目を奪われるのではなく、権威と愛に満ちた主の御言葉に聴き従いましょう。
​ 主が「黙れ、出て行け」と命じて私たちを暗闇から引き揚げてくださることを信じ、この権威ある主の恵みと平安の中に歩んでまいりましょう。