四旬節・第五主日礼拝 2026.3.22
聖書箇所:ヨハネの福音書15章12-20節
説 教 題: 「最大の愛」
説 教 者: 辻林 和己師
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。ヨハネの福音書15章13-14節 (p216)
序 論)主イエスはご自分を「まことのぶどうの木」、弟子たちを「ぶどうの木にとどまる枝」にたとえて語られました。(1-11)
続いて主イエスが彼らに語られることを通して示されることは…
本 論)
1、主は弟子たちを友と呼ばれる
主イエスは「わたしの戒めを守るなら…」(10)と言われましたが、もう一度「…わたしの戒め…」(12)と語られます。
これは13章34-35節(p213)の箇所ですでに言及しておられました。(p213)
主イエスが弟子たちを愛されたように彼らに互いに愛し合うことを命じられました。
主は弟子たちを友と呼ばれ、この友のためにいのちを捨てる、と言われます。(13-14)
主が弟子たちを「友」と呼ばれたのは、これまで彼らに神様のみこころを告げて来られ、彼らがそのみこころに従うように教え導いて来られたからです。
このことを主イエスはご自身を「主人」、神のみこころを知らない人たちを「しもべ」、それを知っている弟子たちを「友」にたとえて語られます。(15)
「主人」である主イエスが成そうとしておられること(父なる神様のみこころ)を示されるのは、主人のすることを知らない「しもべ」ではなく、主に従って来た「友」(弟子たち)に対してだけでした。
さらに主イエスは弟子たちにご自身の選びと召命について語られます。(16)
彼らは、父なる神様から遣わされたお方、主イエスから選ばれ、使徒として任命された者たちです。(16)
主が彼らを選ばれたのは、「行って実を結び、その実がいつまで残るようになるため」(16)でした。
2、主イエスにとどまり、主と一つにされている弟子たち
再度、主イエスは弟子たちに互いに愛し合うことを命じられました。(17)
さらに主イエスは彼らに対する世の憎しみについて語られます。(18)(ここでの「世」は「罪の世界」や「神に敵対する人々」の意味で用いられている。)
主イエスはかつて「…わたしはこの世の者ではありません」と言われました。(ヨハネの福音書8章23節p196)
それゆえ、主によって世から選び出された弟子たちも、もはやこの世のものではありません。(19)
弟子たちは今や、まことのぶどうの木である主イエスに とどまるぶどうの木の枝とされています。
主イエスと弟子たちが一つとされているので、世が主イエスを憎んだように、弟子たちも世によって憎まれるのです。
前に主イエスは「…しもべは主人にまさらず、…」と言われました。(ヨハネの福音書13章16節p212)
そのことを再び語られ、「…覚えておきなさい。…」と仰られます。(20a)
主人である主イエスが迫害を受けられたのであれば、そのしもべである弟子たちも迫害を受けます。(20b)
人々が主イエスのことばを守ったのであれば、弟子たちのことばも守る、と主は言われます。(20c) 主イエスはご自身の語られたみことばを聞いた弟子たちが主イエスを証しする福音を宣べ伝えることを願っておられたのです。
結 論) 「わたしがあなたがたを愛したように…」(12)と言われた主イエスのご愛は十字架に現わされました。
主イエスはそのみことばの通り、ご自分の友のためにいのちを捨てられ、最大のご愛を示されたのです。(13)
主イエスが私たちに与えてくださったご愛が、私たちが互いに愛し合うことができる土台です。
「捨てる」の原語には「投げ出す、差し出して提供する、置く」という意味があります。
神様から私たちに与えられている様々な賜物(時間やお金、能力等)を、自分のためだけでなく、周りの人たちのために用いることを主は願っておられます。
そして、主イエスはご自身を信じ従う私たちをも親しく「友」と呼んでくださっています。これは大きな恵みであり、そこにも主のへりくだりとご愛が現わされています。主は私たちの一番近くにいてくださる友です。
主イエスの十字架の死と復活によって罪から救われ、互いに愛し合う愛の交わりに加えられた私たちは主から選ばれ、それぞれの務め(使命)を与えられています。
私たちは主イエスにとどまり続け、主との交わりの中で聖霊の実、そして救霊の実を豊かに結ばさせていただき、それぞれの務めを果たしてまいりましょう。(ガラテヤ人への手紙5章22-23節p382)
