しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるように なるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。ヨハネの福音書19章34-35節 (p.226)
序 論)十字架にかかられた主イエスは「完了した」と言われ、頭を垂れて霊を父なる神様にお渡しになりました。(30)
その後、主の御体は十字架から取り降ろされます。
そのとき起こった出来事を通して示されることは…
本 論)
1.過越の子羊
「備えの日」は安息日の前日、木曜日の日没から金曜日の日没までのことです。(31)
ここでの「大いなる日」は過越の祭りの期間の安息日という意味です。
主イエスが十字架で死なれたのは金曜日の午後3時頃でした。すでに日没が近づいていました。
ユダヤの慣例では日没後に囚人の遺体をそのままにして おくことはありませんでした。(申命記21章22-23節p353)
ユダヤの宗教指導者たちは十字架から囚人を取り降ろすことを総督ピラトに願い出ました。ピラトは囚人の脚を折ってからそうすることを承諾します。
ローマの兵士たちは、十字架の主イエスの両隣にいた囚人の脚の骨を折りました。(32)
しかし、主イエスはすでに死んでおられたことが分かったので、その脚の骨は折りませんでした。(33)
この福音書記者のヨハネはこの出来事により旧約聖書の言葉が成就したと告げます。(36)
36節には出エジプト記12章46節(p121)と詩篇34篇20節(p965)の言葉が引用されています。
出エジプト記12章43-49節は過越について語られている箇所ですが、この福音書は主イエスが過越の祭りのときに神にささげられる子羊であり、「世の罪を取り除く神の子羊」であることを伝えています。(ヨハネの福音書1章29節p176)
そして、詩篇34篇19-20節(p965)は、苦難の中にある正しい人を神様が守って下さることが歌われています。
この福音書では主イエスが罪なき方であり、父なる神様が御子イエス様を守られ、やがて復活させられることを暗示するために引用されています。
2. 主イエスの血と聖霊
主イエスの遺体を取り降ろす前に、兵士のうちの一人が 主の脇腹を槍で突き刺しました。すると、すぐ血と水が流れ出ました。(34)
「これ(主イエスの十字架)を目撃した者」(この福音書記者ヨハネだと考えられている)は、自分が語っていることは真実だと証ししています。(35)(26)
そして、主イエスの脇腹が突き刺されたことにより、預言者ゼカリヤの言葉が成就されたと語られます。(36)(ゼカリヤ書12章10節p1626)
父なる神様はご自分の「ひとり子」であり、「長子」である御子イエス様をいけにえ(犠牲)にされて、私たちの救いの道を開いてくださいました。
弟子のヨハネは主イエスが十字架で死なれることは、神様のご計画であり、自分たちの身代わりに主が死なれたことを示され、悔い改めたのです。そして、イエス様が神の御子、救い主であることを信じました。
では、主イエスの脇腹から流れ出た血と水は何を意味しているのでしょう。
「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」(へブル人への手紙9章22節p448)とあるように、主イエスが十字架で血を流されたことにより私たちの罪は赦されたのです。
またヨハネは、水は聖霊のことを指していると語っています。(ヨハネの福音書7章37-39節p194)
結 論)主イエスが十字架で死なれ、三日後に復活され、昇天し、父なる神様の右の座に着かれた後、弟子たちに聖霊がくだりました。
私たちを罪から救うために十字架にかかられた主イエスを神の御子、救い主と信じる者は罪赦され、聖霊が私たちの内に注がれます。
神様が与えてくださる聖霊は「恵みと嘆願の霊」でもあります。(ゼカリヤ書19章10節p1626)「嘆願」の原語は「あわれむ」と言う意味が含まれています。
神様は、私たち一人ひとりを愛され、あわれみ、恵みを与えたいと願っておられるお方です。そして、自分の罪を悔い改め、砕けた心をもって御前に出る者を喜んで受け入れてくださるのです。(ヨハネの手紙第一 1章7節p478)
主イエスの血によって罪赦され、きよめられた恵みを覚 え、主を仰ぎつつレントのときを過ごしましょう。