ヨハネの福音書13章31~38節

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。
               ヨハネ13章34、35節 (p213)

序 論)受難週の木曜日、イスカリオテのユダは夕食(最後の晩餐)の席を離れ、夜の暗闇の中に去って行きました。(13章30節)
 主イエスは残った十一人の弟子たちにさらに語られます。
 みことばを通して示されることは…

本 論)
1.互いに愛し合いなさい
 主イエスはまず「人の子」(イエス様ご自身のこと)が栄光を受けられることについて語られます。(31)
 「栄光を受ける」とは、主イエスが十字架で死なれ、三日後に復活されることです。父なる神様がイエス様を復活させてくださるのです。(32)
そのことによって父なる神様も御子イエス様によって栄光を受けられます。(31)
 続いて主イエスはご自分が弟子たちのもとを去って行かれることを告げられます。(33)   
 「ユダヤ人たちに言ったように」は、7章33-34節(p194)で語られたことを指しています。
 「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」(33)とは、主イエスが復活された後、天に昇られ父なる神のみもとに帰られることを意味しています。
 弟子たちのもとを去って行かれる主イエスは、地上に残る弟子たちのために「新しい戒め」を与えられました。(34)
 隣人を愛することは旧約聖書にある「十戒」等ですでに命じられていました。(出エジプト記20章12-17節p135)(レビ記19章18節p212)
 そして主イエスもそのことを語られました。
         (マルコの福音書12章28-31節p94)
 ではどうして主イエスは、ここでこの愛の戒めを「新しい戒め」と言われたのでしょう。
 それは、御子イエス・キリストを通して現わされた神の愛の注ぎを受けて、互いに愛し合いなさいという「戒め」(命令)だからです。
 主が「わたしがあなたがたを愛したように…」と言われるこの戒めを守り、彼らが互いに愛し合うなら、主が地上を去られた後もなお、彼らが主の弟子であることがすべての人に認められます。(35)

2.ペテロの否認の予告
 主のみことば(33c)を受けて、弟子のペテロは「主よ、どこにおいでになるのですか」とお尋ねします。(36)(ラテン語では「クォ・ヴァディス・ドミネ?」)
 主イエスは「…、あなたは今ついて来ることができません。…」と答えられました。(36)
 主のお答えに、ペテロは「…あなたのためなら、いのちも捨てます」とどこまでも主に従っていく意志を示しました。(37)
 しかし、彼にはまだ主のみことばの真意がわかっていませんでした。
 主イエスはペテロに「鶏が鳴くまでに」(夜中と明け方の間の時間)に、彼が主を知らないと否認することを予告されました。(38)  
 ペテロの決意も、このときからわずか半日もたたないうちにすぐに揺らいでしまいます。主イエスが捕らえられるという状況の中で、彼も他の弟子たちも主の予告された通り主を見捨てて逃げ去ってしまいました。

結 論)ペテロたちは「今」このときは、主イエスについて行くことはできませんでした。
 しかし、復活された主イエスが彼らを訪ねられ、罪を赦し、再び立ち上がらせてくださいました。
 罪を悔い改め、聖霊を待ち望んだ弟子たちは、ペンテコステの日、聖霊の注ぎを受け、御力をいただいて福音を宣べ伝え始めました。                  (使徒2章1節以降 p233)
 彼らは「後には」主イエスに従って行くことができたのです。
 主イエスを信じ、従う私たちにも聖霊によって神様のご愛が注がれています。(ローマ人への手紙5章5節p304)
 主イエスから愛されている私たちもこの「新しい戒め」(愛の戒め)を心に留め、互いに愛し合いながら主を証ししてまいりましょう。

(参考)
 『クォ・ヴァディス(ネロの時代の物語)』
        (ヘンリク・シェンケェヴィチ著 
        ポーランドの小説家 1846-1916)
    (岩波文庫(新訳)の題名は『クオ・ワディス』)