使徒行伝11章1~18節

人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして、「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と言った。        使徒11章18節 (p.200)

序 論)ペテロはコルネリオのもとで数日間、滞在しました(10章48節)。異邦人であるコルネリオたちが主イエスを信じ、洗礼を受けたという知らせは、直ちにエルサレムに届きました。ユダヤ人キリスト者の中でも保守的な「割礼を重んじる人たち」(2)は、ペテロを非難します。(3) 彼は、彼らに今までのことを「順序正しく説明」(4)します。ペテロの言葉と、それを聞いた彼らの反応を通して示されることは…

1 異邦人も招かれている
  ペテロはコルネリオたちがいたカイザリヤという町からエルサレムに戻り、エルサレム教会の仲間たちのところに行きます。(2)
ペテロに対する非難は、異邦人と「食事を共にした」(3)ことに向けられました。その根底には、異邦人の回心を容認しない、彼らのかたくなな心がありました。
ペテロはヨッパとカイザリヤで起こった出来事やその経過を語ります。(4-15)(使徒10章)   その中で、異邦人への聖霊降臨の様子が、「ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じよう」だと強調しました。(15)(使徒行伝2章1-4節 p.181参照)
また、神様がお与えになる「賜物」もユダヤ人キリスト者が与えられたものと「同じ」でした。(17) 神様の御心はユダヤ人だけでなく異邦人も救われることでした。
ユダヤ人も異邦人も、主イエスを信じたとき、聖霊が与えられるのです。
私たちも主イエスを信じたとき、聖霊が与えられ、主イエスが私たちの内に生きてくださるのです。

2 誇りとするもの
  「わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」(「神がなさることを妨げることができるでしょうか」(新改訳2017))(17)。「神がなさること」は人の思いや戸惑いを打ち破って前進します。ユダヤ人と異邦人の隔ての壁が取り除かれたことも、神様が聖霊のお働きによって成されたことでした。
エルサレム教会の人たちは、ペテロの言葉を黙って聞きました。彼が語り終わった後も、しばらく沈黙がありました。そして、神様を賛美しました。(18) 彼らも今までの異邦人への偏見が取り除かれていったのです。
彼らは、最初に抱いていた考えを変えました。他のユダヤ人のように「割礼と律法」を誇り、異邦人を軽蔑する思いがありました。しかし、ペテロの話を聞き、自分たちの異邦人に対する思いが神様の御心に添うように変えられていきました。それは、ペテロも彼らも、イエス・キリストを土台とし、聖霊の導きに従ったゆえに起こったことでした。
私たちも、神様や主イエス以外のもの、自分の資格や業績を誇る思いが心の内にないでしょうか。主イエスは、そのような私たちにも聖霊によって悔い改めの思いを与え、
主イエスと主の十字架を誇る者へと変えてくださるのです。

「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。」         (ピリピ人への手紙3章3節 p.311)

「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。」(ガラテヤ人への手紙6章14節 p.300)

結 論)エルサレム教会の人々は神様を賛美して、言いました。(18)
 「神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」(新改訳)
「悔い改め」とは、神様のもとに立ち返ること、自分の心を神様に向けることです。主イエスは、私たちが悔い改め、ご自身のもとに来られることを願い、聖霊とみ言葉を通して働きかけておられます。
ここでの「いのち」は、復活された主イエスとの交わりによって与えられる「永遠の命」のことです。主イエスを信じ、従う者は永遠の命に生かされるのです。
神様に祈り、主イエスとの交わりを持ち続けるとき、私たちの心は日々、新たにされていきます。主のご愛の注ぎと光をいただき、「世の光」として歩んでまいりましょう。 (マタイによる福音書5章14-16節 p.6)