使徒行伝10章34~48節

そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。 あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。…
              使徒10章34-36節 (p.198)

序 論)ペテロは聖霊の導きに従い、カイザリヤに出発しました。ヨッパの教会の六人の信徒たちも彼に同行しました。(19-23) ペテロとローマ人コルネリオとのやり取りの(24-33)後、ペテロはコルネリオと集まっていた人たちに福音を語ります。彼の説教とその後の出来事を通して示されることは…

1 神は分け隔てをなさらない
  まず、ペテロは、「神は人をかたよりみないかた」(34) (「神は人を分け隔てなさらない」新共同訳)であると言います。「かたより見る」という言葉の原語は、もともとは「顔で判断する」というような意味です。それは、外見、表面に現れた姿のみによって人を評価し、判断することです。
当時、ユダヤ人と異邦人の間には、信仰や習慣等の違いにより、大きな隔たりがありました。
ペテロがここで、ユダヤ人と異邦人の間の分け隔てを乗り越えることができたのは、33節までに語られてきたように、神様のみ言葉と、それに伴って起きた出来事によって心新たにされたからでした。
神様が、このとき成そうとしておられるみわざをペテロは本当によく理解し、それに従う者とされたのです。(35)
「どの国民でも」とは「異邦人でも」ということです。
異邦人であっても、神様を畏れて正しいことを行うなら、神様がご自分の民として受け入れ、救いにあずからせてくださいます。イエス・キリストの成されたみわざのゆえに
もはやユダヤ人と異邦人の分け隔ては取り去られました。
そして、ペテロは、神を畏れ、正義を行うための新しい道が、イエス・キリストによって開かれたことを語ります。(36-37)主イエスは、父なる神からの「聖霊と力」(38)の注ぎを受けられ、父なる神がいつも御子イエス様と共におられました。

2 異邦人への聖霊の注ぎ
  人々は、主イエスを十字架に追いやりました(39)が、神様は主イエスを復活させられました。(40) さらにペテロは、復活された主イエスの顕現、主と共に食事をしたこと、主が宣教を命じられたことを語りました。(41) ペテロや他の使徒たちは主イエスの「証人」として立てられたのです。(39、42)。旧約の預言者たちも証ししているように、主イエスを信じる者は、ユダヤ人も、異邦人も、「ことごとく」(「だれでも」新改訳)、罪のゆるしをいただくことができるのです。 (40) (イザヤ書53章4-6節p.1021 等)
   ペテロの説教が終わらないうちに、聞いていた皆の上に聖霊が降りました。(43)   割礼を受けている信者(ユダヤ人キリスト者)は、異邦人への注ぎを見て驚きました。(44-45)
   ペテロは、使徒の権威をもって、異邦人にも洗礼を授けることを承認します。そして、主イエスの御名によって、コルネリオたちに洗礼を受けさせました。(46)
   主イエスの十字架の死と復活による救いにあずかる洗礼が異邦人に授けられました。聖霊が先立って働かれ、このときから教会が異邦人を含む群れとなって成長していくようになりました。
今も聖霊が先立って、すべての教会を導き、成長させてくださるのです。

結 論)聖霊のお働きによって、ペテロを始めとして他の使徒たちや弟子たちも、異邦人に対する偏見が徐々に取り除かれていきました。
 「この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである。」          (使徒行伝2章39節 p.183)
かつてペテロはペンテコステの日の説教をこの言葉で終えました。ここでの「あなたがたの子ら」はユダヤ人、「遠くの者一同」は異邦人のことです。「この約束」は、主イエスを信じる者は、だれでも罪の赦しが与えられ、聖霊を内にいただくことができるという約束です。 今、私たちの上にも神様のこの約束が実現しています。
私たちも当時のユダヤ人のように、人や民族や国々に対する偏見や「分け隔て」の思いが心の内にないでしょうか。
自分の力では、このような思いやその奥にある人の心の罪を取り除くことはできません。主イエスの十字架と聖霊の力によって私たちの罪は赦され、主の愛の注ぎを受け、心が変えられ、様々な偏見や心の壁が取り除かれていくのです。
ペテロが語ったこと(10章36-43節)は、主イエスを証しする言葉であり、福音書の要約だとも言われます。
私たちは、さらに福音書、そして聖書の言葉に耳を傾け、苦しみや試みの中におられる方々のことを思い、神の御前でとりなし、祈り続けましょう。