使徒行伝10章1~33節

「…それで、早速あなたをお呼びしたのです。ようこそおいで下さいました。今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです。」     使徒10章33節 (p.198)

序 論)カイザリヤは、ローマの軍隊が常駐していた地中海沿岸の大都市でした。ローマ軍の一人だったコルネリオは異邦人でしたが真の神様を信じ、ユダヤ人たちを尊敬していました。御使いは彼に現れて、ヨッパにいるペテロを招きなさいと命じたのです。(1-6)
   彼は、その言葉に従い、二人の僕と一人の部下を、ヨッパに遣わしました。コルネリオとペテロの出会いを通して示されることは…

1 神がきよめられる
  一方、ペテロも祈りの中で幻を見ました。「天が開け」、降りて来た「大きな布のような入れ物」には、律法が食べることを禁じたものが入っていました。(11) 神様は彼に
「それらをほふって食べなさい」(13)と命じられます。
ユダヤ人であるペテロにとってそれらは「汚れたもの」でした。彼は食べることを拒みます。(14)
   しかし、御声は「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」(15)と更に彼に促しました。
「イエスは、このように、どんな食物でもきよいものとされた」(マルコによる福音書7章19節 p.62)とあるように、主イエスによって、きよい物ときよくない物とのユダヤ教の区別は廃棄されました。
そして、主イエスの十字架と復活、聖霊降臨により、ユダヤ人も異邦人も、同じように信仰によって救われる道が開かれたのです。
コルネリオの三人の使者の到着とペテロの思い惑いは、「ちょうど」(17)同じ時でした。御霊(聖霊)は、「…わたしが彼らをよこしたのである。」(「わたしが彼らを遣わしたのです」新改訳)とペテロに使者と会うように促します。(19-20)
   彼は、聖霊の導きに従いました(21)。コルネリオの側も「聖なる御使い」(22)の指示を受けていました。
神様が、聖霊によってペテロやコルネリオたちを導いて出会わせられたように、神様は私たち一人ひとりの歩みもご計画をもって導いておられます。

2 神様の御前に共に出る
  ペテロたちがカイザリヤに着いたとき、コルネリオの家には親族や友人までが集まって、ペテロを待っていました。 (23b-24)。
コルネリオは、ペテロに対して深い尊敬をもって、「彼の足もとにひれ伏して拝し」(25)ました。しかし、ペテロはそれをたしなめます。(26) 神様を崇敬し、礼拝することと人を尊敬することは、はっきり区別すべきことだと教えたのです。
「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい。」(マタイの福音書4章10節 新改訳2017)      (旧約聖書 申命記6章13節 p.255)
ペテロは、部屋に集まっていた大ぜいの人たちに語ります。(28-29) 彼は異邦人の家を訪問したことの意味をはっきりと悟ります。先に彼が幻に見た動物や鳥を食べることは(11-13)、異邦人への宗教的偏見を取り除き、彼らを受け入れることを示していました。聖霊によって彼の偏見は取り除かれていました。 主イエスの十字架のあがないによって、ユダヤ人も異邦人も神様の前にきよいものとされているのです。
次に、コルネリオはペテロを招いたいきさつを語りました。(30-33) 彼は、集まった人たちと共に、神の言葉を待ち望んでいました。そして、神の言葉を聞くために「みな神のみ前にまかり出ているのです」(「みな神の御前に出ております」新改訳)(33)とペテロに告げました。

結 論)み言葉を聞くために、共に神様の御前に出ている、これが、ペテロを迎えたコルネリオの姿勢でした。
私たちも、み言葉を聞くために共に神様の御前に出、礼拝を守ることによって、神様からのご愛とみ言葉を内にいただきます。そして私たちは神様に従う者、キリストに向かって成熟する者へと造り変えられていきます。さらに私たちの人としてのいろいろな違い、対立、隔たり、溝を乗り越えて真実に交わりを持つ者とされます。
日常の生活の中でも、神様を信じ、神様に希望を抱いて生きる私たちは、どこにいたとして、何事が起きても、主イエスが共にいてくださり、神様のご支配の中にあるのです。

「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。」  (詩篇16篇8節 p.759)
ここでの「前」や「右」は「最もそば近く」という意味で用いられています。
神様のみそば近くを歩み続けるため、一日の中で、静かな場所、静まりの時を確保し、神様に心を向け、主の御臨在を覚える時を持ちましょう。