ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。 イザヤ書46章3-4節 (p1246)
序 論)イザヤ書46章には、前の44章、45章で語られた「わたしのほかに神はない」という主題が繰り返されています。聖書が伝えるイスラエルの神こそ、確かな救いをなされる生ける真の神様なのです。
今回の箇所を通して示されることは…
本 論)
1.人に運ばれる神々
「ベル」も「ネボ」もバビロン地域で拝まれていた偶像の神々です。それらは祭りのたびごとに家畜の引く馬車に乗せられてあちこちに運ばれていました。(1-2)
偶像は初めは拝まれていても、後には重荷となってしまい、やがて捨てられてしまいます。
「自分自身も捕らわれの身となって行く」(2)はやがてバビロンがペルシア王クロスにより征服されることを示す預言にもなっています。(BC539年)
偶像だけでなく、何でも真の神でないものを神のようにあがめるのは偶像礼拝です。
その根本にあるのは人間の貪欲です。
「貪欲は偶像礼拝です。」(コロサイ人への手紙3章5節p404)
真の神様は「ヤコブの家」(イスラエルの民)に語りかけられます。(3)
「残りの者」は神様の一方的な恵みにより、神様に立ち帰り、忠実に主に従っている人たちのことです。
神様がイスラエルの民一人ひとりを「生まれる前から」担ぎ、運ばれたように、私たち一人ひとりをも担ぎ、運んでくださっているのです。(3)
2.私たちを背負われる神
伝道者の書12章1節(p1153)の「若い日に」の原語は「髪の毛の黒いうちに」と解することが出来る言葉が使われています。
伝道者の書12章3-7節は人が年を取る中で体の各部分が衰えていく様子をいろいろなたとえを用いて語っています。(たとえば「アーモンドの花」(5)の色は白いことから「白髪」を示している)
しかし、聖書は単なる「盛者必衰」を語っているのではありません。どんなときも神様は人間を慈しまれ、恵みを注ぎ続けてくださることを語っています。
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。 神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12章13節p1154)
たとえ私たちの肉体は弱り、衰えるとしても、自分を造られた創造主がおられることを知り、神様と交わりを持ち続けながら歩むとき人生は喜びに満ちたものになるのです。
イスラエルの民に約束されたように神様は、私たちを地上の生涯の最期まで運び、背負われ、救い出してくださいます。(4)
さらに神様は「わたしの計画は成就し、わたしの望むところをすべて成し遂げる」(イザヤ書46章10節)と言われました。神様は預言者を通して知らせた計画を必ず成し遂げると約束しておられるのです。
このように言われ、その約束を実現なさる主こそが真の神であり他に神はいないのです。
結 論) この預言は直接的には、この後に起こるペルシア王クロスによるバビロン捕囚からの解放を意味していました。
それだけでなく、これは神様がイエス・キリストによって成される「大いなる救い」(罪と滅びからの救い)の計画の実現をも意味していました。
この救いは、主イエスの十字架と復活により成し遂げられました。
私たちは救い主イエス様を知り、信じ、従う者とされました。そして、「光とまこと」(聖霊の光と聖書のみことば)により主との交わりの中で生かされています。(本日の交読文 詩篇43篇4節p477)
主は私たちの地上の生涯の終わりまで、いつも私たちと共にいて、助け導き、御国に迎えるときまで守り続けてくださいます。
私たちを運び、背負ってくださる主イエスを信じ、従い続けてまいりましょう。
(参考)
『担いたもう神』高橋三郎(1920-2010)
(無教会派の伝道者)