公現節 第2主日礼拝 2026.1.11
聖書箇所: マタイの福音書20章1-16節
説 教 題: 「気前のいい神様」
説 教 者: 辻林 和己師
「『…あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前が
いいので、あなたはねたんでいるのですか。』このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」マタイの福音書20章14-16節 (p.41)
序 論)主イエスのもとに来た、金持ちの青年が去った後(19章16-22節)、主イエスは弟子たちに話されました。(19章23-30節)。
続いて、主は「ぶどう園の労働者のたとえ」を話されます。このたとえを通して示されることは…
1、神は「同じだけ与えたい」と願っておられる
このたとえ(1-15)も「天の御国」のたとえです。(1)
ぶどう園の主人が約束した「一日一デナリ」の賃金は、当時の標準的な値でした。
主人が「朝早く出かけた」場所は、仕事を探している人(労働者)を雇うための市場だったでしょう。(1)
この主人は、早朝、九時、十二時、午後三時、五時と同じことを繰り返します。
九時以降に来た労働者には「…相当の賃金を払うから」と言いました。(4)
夕方になり支払いは「最後に来た者から始めて、…」行われます。(8)
「五時ごろに雇われた者たち」に意外にも「一デナリ」が渡されました。(9)
早朝から一日中働いた者たちは「もっと多くもらえるだろう」(10)と期待して待っていました。
ところが彼らも一デナリだったのです。
そこで、夕方から来た最後の者たちと一日中労苦した自分たちが同じ額なのは不当だと彼らは主人に抗議します。(11-12)
しかし、主人は彼らに約束した約束は履行しているのだから少しも不当なことはしていない、と言いました。 (2)(13-14a)
このたとえの「家の主人」(1)は、父なる神様です。
「一デナリ」(2)は、前の章で金持ちの青年も求めていた「永遠のいのち」であり「救いの恵み」のことです。(19章16、25節p39)
神様はそれをぶどう園で長い時間働いた者にも、短い時間しか働かなかった者にも「同じだけ与えたい」(14)と願っておられます。
2、ただ神のご愛とあわれみによって
このたとえは「気前のいい主人のたとえ」でもあります。(15)
このたとえを語られた後、主イエスは、19章の最後で言われたことを繰り返されます。(16)
19章30節とこの章の16節は、ことばの順序は違いますが、同じ意味のことを言われています。
この「先の者」(朝早くから働いている人たち)は、主イエスに従った弟子たちのことで、「後の者」(「この最後の人」)は、主の復活とペンテコステ(聖霊降臨日)以降に教会に加わった人たちだろうか、とも思えます。
あるいは、信仰生活を長く続けている人たちと、つい最近、教会に来て救われた人たちのことだろうか、とも考えられます。
このようにこのたとえは様々に適用して受け止めることができます。
どう適用するとしても、大切なことは、父なる神様は、すべての人が救われてほしい、救いの恵みを与えたいと願っておられる「気前のいい」愛のお方だということです。
ただ神様のご愛とあわれみにより、主イエスを通して、私たちは救いの恵みにあずかったのです。
結論)
このたとえは、人の心にあるねたみのことも指摘しています。(15)
聖書は、主イエスを亡き者にしようと企んだ、宗教指導者たち(祭司長たち)の動機は、ねたみのためであったことを語っています。(マルコの福音書15章10節p102)
私たちも時には人と比較して落ち込んだり、ねたみの思いや優越感を持ったりしてしまう罪ある者です。
そのような罪人を救うために主イエスは地上に来てくださいました。そして、十字架の死と復活によって救いのみわざを成し遂げてくださったのです。
今回のたとえに示されている「天の御国」(神のぶどう園)のひな型が教会です。
私たちは、主イエスの救いの恵みにあずかり、教会に属する者とされました。
神様は、そのぶどう園で私たちが主の恵みに応答して、それぞれがふさわしく働くこと(主と教会に仕えること)を願っておられます。
神様のご愛と恵みに感謝し、一人ひとりに必要なものを与えてくださる神様に信頼して歩みましょう。
