三位一体・第24主日礼拝 2025.11.23
聖書箇所: マタイの福音書19章23-30節
説 教 題: 「神にはできる」
説 教 者: 辻林 和己師
弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」マタイの福音書19章25-26節 (p.39)
序 論)エルサレムに向かわれる主イエスに一人の青年が近づき、主に問いかけました。(16)
青年は、主の言われることに従えず、主のもとを悲しみながら立ち去りました。(20-22)
その後の主イエスと弟子たちのやりとり、主のみことばを通して示されることは…
1、救いは神の賜物
主イエスは「…金持ちが天の御国に入ることは難しい。」と言われます。(23)
24節のたとえは、そのことが不可能であるという意味で語られています。
当時、ユダヤ人は、物質的繁栄や富の所有を神の祝福のしるしと考えていました。
しかし、主イエスは富める者が天の御国(神の国)に入るのは難しいと言われ、それを聞いた弟子たちは驚きました。 (25a)
彼らは、それでは誰も救われないのでは、と主に告げます。(25b)
主イエスは、それは人にはできないが、神様にはできると答えられました。(26)
主イエスは、金持ちの青年に伝えようとされたように、救いは人の力によって獲得されるものではなく、神様の賜物、恵みによって与えられるものであることを弟子たちに語られたのです。
人は、自分の救いのために何もすることができません。
しかし、その絶望の中に、神の恵みのみわざは成されます。
主イエスは、神に近づく人々を救われるお方です。 (へブル人への手紙7章25節p445)
2、神が新しくされる
主イエスのみことばを聞いたペテロは主に告げます。 (27a)
彼には、あの青年には出来なかったことを自分たち(弟子たち)はしたこと、すなわちすべてを捨てて、主に従って来たという自負がありました。(27bc)
弟子たちは、去って行った青年と同じように、自分の払った犠牲の大きさに応じて報いがあるはずだと考えていたのです。(27d)
主イエスは弟子たちに「報い」を約束されます。(28-29)
「人の子がその栄光の座に着くとき」(28)は、主イエスが再臨されるとき、新しい天と地が到来するときです。 (ヨハネの黙示録21章1-5節p516)
「十二の座」や「イスラエルの十二の部族」は、新しいイスラエル、主イエスを信じ、従う者たちによって形成される神の民のことを指しています。(28)
「わたしの名」(主イエスご自身)のために、神の国のために、すべてを捨てた者には、その幾倍もの祝福が与えられます。(29)
主イエスを信じ、従うことによる最高の祝福は「永遠のいのちを受け継ぐ」ことです。(29) (富める青年の問いへの最終的解答がここで与えられている。(16))
主イエスは弟子たちに報いを約束されましたが、彼らの考え方(払った犠牲に応じて報いられるという功徳思想)が正しくないことも暗示されました。(30)
そして、続いて語られる「気前のよい主人のたとえ」(ぶどう園の労務者のたとえ)(20章1-16節)で、そのことを明らかにされます。
結 論) 「その新しい世界で」(「新しい世界になり」(新共同訳)、「世が改まって」(口語訳))(28)の原語は「再生(再び生まれる、再び造られる)」を意味することばが用いられています。
主イエスを信じ、救われた者はだれでも「新しく造られた者」です。(コリント人への手紙 第二 5章17節p361)
神様が主イエスによって弟子たちを造り変え、霊的に成長させられたように、神様は今も私たちを造り変え続け、成長させてくださっています。
また、この19章では金持ちの青年やペテロたちと「子どもたち」が対比されています。(19章13-15節)
子どもたちは無条件に親に信頼し、依存して生きています。
私たちもただ主イエスにお頼りし、父なる神様に祈りながら歩んでまいりましょう。
