マタイの福音書18章1~10節

三位一体・第14主日礼拝    2025.9.14
聖書箇所: マタイの福音書18章1-10節
説 教 題:  「この子どものように」
説 教 者:     辻林 和己師

まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。

   マタイの福音書18章3-4節 (p.36)

序 論)この章で主イエスは「天の御国」が実現するためにどのようなことが必要かを教えておられます。
 主イエスが弟子たちに語られみことばを通し、示されることは…

1.真の偉さ
 主イエスは、ガリラヤ湖畔の町、カペナウムのペテロの家の中におられました。(17章24-25節)
 そこに弟子たちが集まりました。(1a)
 彼らは主に尋ねます。(1b)
 彼らは天の御国での「席次」にとらわれていました。
 主イエスは「一人の子ども」を呼び寄せられました。(2) 
 そして、主は彼らに語られます。(3)
 「向きを変える」(「悔い改める」)は、ここでは心を神に向けることであり、「偉さ」を考えることから方向転換して、「低さ」に心を向けることだと受け止めることができます。  
 当時のユダヤ人社会では、子どもは無力で無価値な者と見なされていました。
 天の御国は、自分の徳や能力で入ることはできず、自分の無力さを認め、主イエスを信ずる者が入ることができます。
 天の御国に入る者がそうなら、一番偉い者は「自分を低くする者」(神の前にへりくだる者)です。(4)
 主イエスが次に言われる「このような子どもの一人」(5) は、実際にそこにいた子どもを指しながら、主の弟子たちのことをも言っておられます。
 彼らは名もない小さな者たちでした。しかし、彼らは主イエスのものとされた者たちです。「わたしの名のゆえに」(「主イエスの御名のゆえに」)(5)、弟子たちを受け入れる人は、主を受け入れることになります。            

2、つまずきについて
  主イエスは弟子たちにさらに語られます。(6)
 「わたしを信じるこの小さい者たち」は、信仰を持ってまだ日の浅い人たちや、「信仰の弱い人」を指して言われています。(ローマ人への手紙14章1節p319)
 ここでの「つまずき」は人を罪に陥れることです。
 これらの者たちを受け入れず、逆に罪を犯させたり、不信仰や背信に陥れることに対して、主は強い警告を与えられました。 「大きな石臼」(ろばのひき臼)という表現は、人に罪を犯させることの恐ろしさ、その罰の大きさを示しています。
 主は続いて人を罪に陥れる「この世」が「わざわいです」と言われます。(7) これは強い非難を意味することばです。
 8-9節は、自分自身をつまずかせる場合のことを語られています。つまずかせる(罪を犯す)体の部分(手、足、目)について言われています。
 「永遠の火」や「ゲヘナの火」は、神によってくだされる、厳しい、終わりのないさばきを示しています。
 主イエスは再び「小さな者たち」について話されます。(10)
 主は当時のユダヤ人の間で一般に信じられていた御使いたちの守護について語られます。(10)
 一人ひとりを守る御使いは彼らのことを神様に報告します。(へブル人への手紙1章14節p438参照)
 このように父なる神様は、小さな者たちを特別に顧みて下さるのです。                  

結 論)「人の子は、失われている者を救うために来たのです。」(脚注11節)(11節は『新改訳2017』の欄外の脚注に記されているように、有力な写本には載っていません。)
 主イエスは、失われている者(罪人)を罪から救い、神様に立ち帰らせるためにこの地上に来てくださいました。(ピリピ人への手紙2章6-9節p396)
 主イエスは、すべての人がその罪のために受けるべき罰を十字架の上で一身に受けて死なれました。
 十字架で死なれ、復活された主イエスを信じ、心に受け入れる者は、罪赦され、永遠のいのちに生かされるのです。
 主イエスによる救いの恵みにあずからせていただいたことを感謝し、一人でも多くの人たちが、神様を知り、主を信じることができるように祈り続けましょう。

(参考)
    オリゲネス(AD185頃~254頃年)
    エジプトのアレクサンドリア派の代表的
 神学者。古代キリスト教最大の神学者と言われている。