そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 ルカの福音書23章42-43節(p171)
序 論)主イエスが十字架につけられたとき、いっしょに十字架につけられた人が二人いました(33)。彼らは「犯罪人(強盗)」でした。初めは二人とも他の人たちと一緒になって主をののしっていました。(マタイの福音書27章44節p62)
彼らの様子と、主が二人のうちの一人にかけられたみことばから示されることは…
1.二人の犯罪人
主イエスは、十字架の上で敵を愛し、赦され、こう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが、分かっていないのです。」(34)
一人の犯罪人は、主に悪口を言い続けました(39)。
彼は、苦しみと絶望、怒りや不満を主イエスにぶつけました。彼は、役人や宗教指導者たちの側に立って主を責めました。彼の姿は、神様を知らなかったり、無視したり、不平、不満ばかりで自分の罪に気づかなかったかつての私たちの姿と重なります。
ところが、もう一人の犯罪人の心が変わり始めたのです。
彼は自分には罪があることがわかり、さらに中央の十字架にかかっているナザレのイエスというお方は、普通の人とは違うということを感じ始めていました。
主イエスに悪口を言い続ける犯罪人に対して、もう一人の犯罪人は彼をたしなめて言いました。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。」(40)
彼は、同じ苦しみの中で、その苦しみを先ほどの人とは全く違った仕方で受け止めています。彼は、この苦しみは自分たちの罪の当然の報いだと言いました。(41)
怒りと憎しみで心がいっぱいだった彼は、今、十字架の上で、神を恐れる思いを抱くようになったのです。それは、彼らの真ん中で十字架につけられている主イエスの姿に衝撃を受けたからでした。そのことは、「だがこの方は、悪いことを何もしていない。」(41)の言葉に表われています。
彼が今、見つめているのは、神のさばきを受けておられる主イエスです。神の罰としての十字架の刑を、このイエスという方が、我々と同じように受けておられる、そのことに彼は愕然(がくぜん)とし、神を畏れ、敬う思いが生まれました。
彼は、自分の罪を認め、罪を告白し、主が罪なき方、神の御子であることを認めました。
2.約束のことば
自分と同じ十字架に何の罪もないお方がついておられる、自分が罪の報いとして受けなければならない苦しみと死を神の御子が共に引き受けておられたのです。
その事実に触れた彼は、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(42)と主に願うことができました。
彼は一般のユダヤ人、もう一人の犯罪人や弟子たちのように地上のメシア王国を願ったりしませんでした。ただ主イエスが自分のことを覚えていて下さることを願いました。
彼の言葉は、不十分な信仰の表明だったかもしれません。でも、このお方、主イエスは、メシア(救い主、キリスト)として御国を支配なさるお方だという彼の信仰が現われています。そして「思い出してください」という願いには彼のへりくだった気持ちがこめられています。
彼の言葉を聞かれた主は、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43)と告げられました。
パラダイスは、神の御住まいであり、この約束は、罪が赦され、神様のもとでの祝福が回復されることを意味しています。そして、約束のことばの通り、主イエスが彼と一緒にいて下さるのです。
結 論) この犯罪人は主イエスの御姿を見て、神様を畏れ、敬う心が与えられました。
彼は、さばき主なる神を畏れ、自分の罪を認め、主イエスに対する信仰を表したのです。
私たちも神様を敬う思いが与えられた時に、自分のうちに赦されねばならない罪があることに気づかされます。
そのありのままの自分を神様の御前に出て言い表し、主イエスへの信仰を告白したとき、主はこの人をお救いになったように、「今日」(今、このとき)私たちを救って下さるのです。
主は、神様の御前で自分の罪を認め、ご自身を救い主と信じる人を、いつでも、どこででも救われるお方です。
主イエスを信じ、十字架による救いにあずかりましょう。
地上で生きるときも、地上の生涯が終わり御国に移されるときも永遠の命に生かされ、いつも私たちと一緒にいて下さる
主と共に歩み続けてまいりましょう。