マタイの福音書13章1~23節

良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びますマタイの福音書13章23節(p26)

序 論)主イエスは舟に乗られ、岸辺にいる群衆に向かって、「多くのことをたとえで」語られます。(1-3)
最初に語られた「種蒔きのたとえ」から示されることは… 

本 論)
1.たとえを語られる目的
 当時のユダヤの種蒔きは二つの方法で成されていました。
 一つは、手で種をばらまくように蒔く方法で、もう一つは、種の入った袋に穴を開け、それをろばに負わせて、歩かせながら種を蒔く方法でした。いずれも粗雑なものでした。
 またこのように種を蒔いてから、鍬(くわ)を入れて土をかぶせました。
 そのため、種は道端に(4)、岩地に(5)、茨の間に(7)、あるいは良い地に(8)、落ちました。
  道端に落ちる種は鳥のえさになります。(4)
 岩地は根を深く張れないので強い日差しによって枯れてしまいます。(6)
 いばらの中に落ちた種は、いばらにふさがれて実を結べません。(7)
 耕された良い地は、種が容易に育ち、豊かに実を実らせます。(8)
 弟子たちは主イエスにたとえで語られる理由を尋ねます。(10)
 主は答えられます。(11-17)
 「奥義」(11)は、神様が啓示によって明らかにされる真理です。天の御国を知ろうと真剣に求める者には、その真理が豊かに示されます。逆に無関心であったり、受け入れない者には、天の御国はますます遠ざかり、失われてしまいます。(12)
 主イエスのみことばを聞いても、受け入れず、悔い改めを拒み続けるパリサイ人たちの姿は、預言者イザヤのことばと重なります。(13-15)    (イザヤ書6章9-10節p1176)
 
2.主はみことばを語り続けておられる
 パリサイ人たちにさばきのことばを語られたのとは対照的に、主イエスは弟子たちの祝福を語られます。(16-17)
 彼らは、主イエスの御姿を直接、目にし、みことばを聞き、信じ、天の御国に招かれた幸いな者たちでした。
 続いて主は、たとえを解き明かされます。(18-23)
 種は天の御国の到来を告げるみことばです。
 ここでの「種を蒔く人」は主イエスご自身のことを意味しています。(18)
 「道端、岩地、茨、良い地」は、私たちの心の状態を示しています。
 みことばを聞いても悟らないため、心に蒔かれた種(みことば)を悪しき鳥、悪魔が奪い取ってしまいます。(19)
 岩地は「頑なな心」です。一旦はみことばを受け入れても、根がなくて、困難や迫害に屈してしまいます。(20-21)
 茨は、世俗的な思いや富の誘惑を意味しています。それらによって実を結ぶことができないことを示しています。 (22)
 良い地はみことばを聞いて、主イエスを信じ、従う人の心です。その人は霊的に成長に、豊かに実を結びます。(23)  

結 論)私たちの心は、ときには「道端、岩地、茨」のようになることもあるかもしれません。 
 しかし、主イエスは私たちの心に惜しまずみことばの種を蒔き続け、語りかけておられます。
 そして、聖霊のお働きによって、私たちの心を耕し続け、良い地へと変えてくださり、豊かな「実」を結ばせてくださいます。(ガラテヤ人への手紙5章22-23節p382)
 ある神学者は、このたとえから私たちにとって鍬を入れて土を耕すことは「祈ること」だと黙想しています。
 主イエスは、今も、聖霊のお働きと聖書を通し、世界中の人々の心にみことばの種を蒔き続けておられます。
 私たちは、祈りつつ、聖書のみことばを聞き続けてまいりましょう。(9)
 主イエスによって明らかにされた天の御国の奥義、福音を聞き、心に留め、周りの人たちにみことばを宣べ伝え、主を証ししてまいりましょう。