マタイの福音書12章33~42節

しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。…」
マタイの福音書12章39-40節(p24)

序 論)パリサイ人は、主イエスは「悪霊どものかしら」の力で人を癒していると非難しました。(24)
 しかし、主はご自分が「神の御霊」(聖霊)によって、それを成していると答えられます。(28)
 さらに主が彼らに語られたことを通して示されることは…

本 論)
1.人のことばは心の表われ
 主イエスは、人の心を「木」に、その人の語ることばを「実」にたとえて話されます。(33)
 パリサイ人たちを「まむしの子孫たち」(34)と主は呼ばれ、彼らの心の罪悪性を厳しく指摘されました。
 彼らの頑なで悪意に満ちたことば(24)は、主イエスに対して「心に満ちていること」(34)が、外に表れただけでした。(ヤコブの手紙3章5-12節p461)
 さらに主は人の心を「倉」に、その人の語ることばを倉の中にある「物」にたとえて語られます。(35)
 主イエスを亡き者にしようとする彼らの「悪い倉」(悪い思い)(14)が、主や聖霊に対する冒瀆のことばになって出てきたのです。(31-32)
 彼らのことばは「無益なことば」であり、「さばきの日」に、人はそのことばによってさばかれます。(36-37)
 パリサイ人たちが、故意に主イエスを拒み続けるなら、彼らの罪深さ、心の暗黒さがさらに増していきます。
 主は彼らが自分の心のうちの罪に気づき、悔い改め、ご自身を信じて、光のもとに来ることができるよう、彼らに語りかけ、招かれました。
 しかし、彼らは、主の招きに応じようとしなかったのです。

 2.神に背いた時代
 続いて、律法学者、パリサイ人たちは、主イエスに「…しるしを見せていただきたい」と迫りました。(38)
 彼らが言う「しるし」とは、主イエスが神の御子、救い主(メシア)であることを証しする奇蹟的なみわざでした。
 彼らは異常な事象の中に神を見ようとする、間違った考えに陥っていたのです。
 彼らの求めに対し、主は語られます。(39ab)
 「悪い、姦淫の時代」とは、イスラエルの民の神への背信が増し、彼らの不真実な行状が横行する時代、という意味です。
 旧約聖書では、神様とイスラエルの民の関係が結婚にたとえて語られる箇所がいくつかあります。
 神はイスラエルの民の夫であり、民は神の妻です。ここでの「姦淫」は偶像礼拝を意味しています。
 彼らが「しるし」を求めても真の神様から遠ざかるだけです。そのようなしるしは与えられません。
 主イエスは「預言者ヨナのしるし」だけが与えられると言われます。(39c)
 旧約の預言者ヨナは神様の命令に背いたために、三日三晩、大魚の腹の中にいました。(ヨナ書1章17節p1578)
 そのことにより全く変えられたヨナはニネベに向かい、人々に悔い改めるよう、宣教をしました。 (ヨナ書3章1-10節p1579)
 主イエスはヨナの経験が、ご自身の死と復活の予表であると言われます。(40)
 ヨナの宣教は、神様からの使信(警告のメッセージ)でした。
 それは、ニネベの人々の悔い改めによって彼らの救いとなりました。(41b)
 しかし、「ヨナにまさるもの」(41d)であられる主イエスを目の前に見ているのに、パリサイ人たちは悔い改めませんでした。
 また異邦人である「南の女王」(シェバの女王)は、「ソロモンの知恵を聞くために地の果てから」来ました。(42b)
 しかし、彼らは「ソロモンにまさるもの」(42c)であられる主イエスを求めようとしなかったのです。
 こうした異邦人(ニネベの人々やシェバの女王)の存在は「しるし」(偶像)を求めるこの時代のイスラエルの民を有罪とする、と主は言われます。(41a、42a)

結 論)「悪い、姦淫の時代」(39)に与えられるしるしはヨナのしるしによって予表される主イエスの死と復活です。
 主イエスは私たちを罪から救い、永遠のいのちを与えるために十字架で死なれ、三日後に復活されました。
 主イエスを神の御子、救い主と信じる者は罪赦され、聖霊がうちに与えられます。
 聖霊と聖書のみことばによって、私たちの心はきよくされ、ことばと行いも変えられていきます。(コリント人への手紙 第一 1章30節p327)
 主イエスとの交わりを持ち続け、福音を伝え、主を証してまいりましょう。

(参考)
 『ありのままを生きる -人と自分を愛する聖書養生訓-』
       (東後勝明(1938-2019)英語教育者)
  「ヨナのしるし」『聖書百話』
  (北森嘉蔵(かぞう)(1916-1988)牧師、神学者)