マタイの福音書21章1~11節

公現節 第6主日礼拝      2026.2.8
聖書箇所: マタイの福音書21章1-11節
説 教 題: 「エルサレム入城」
説 教 者:     辻林 和己師

このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」マタイの福音書21章4-5節 (p.42)

序 論)主イエスは弟子たちと一緒にエルサレムに近づき、ベテバゲ(エルサレムの南西、オリーブ山のふもとにあった町)に来られました。(1)
 そして、主は二人の弟子を「向こうの村」(2)に遣わされます。主イエスの言行を通して示されることは…

1、旧約聖書に預言されていた救い主として
 
 主イエスは、つながれているろばと一緒にいる子ろばをご自身のもとに連れてくるようにと、二人に命じられます。(2)
 その子ろばは「まだだれも乗ったことのない子ろば」でした。(マルコの福音書11章2節p90)
 人間がまだだれも使ったことのない家畜は、特に神様のご用のため聖別して用いられていました。(民数記19章2節p274等)
 「主がお入り用なのです」は、主イエスが、その子ろばを必要としておられる、という意味です。(3)
 福音書記者マタイは、この後の出来事はゼカリヤ書9章9節(p1621)の預言の成就だと語ります。(4-5)
 「娘シオンに言え。」(5a)の箇所はイザヤ書62章11b節(p1273)の引用。)
 「娘シオン」はエルサレムに住む人たちを指すことばです。 
 二人の弟子は主イエスが命じられた通りにし、ろばと子ろばを連れて来ました。(6-7)
 ろば(多分母ろば)が連れて来られたのは、まだ小さいろばの子が群衆の中を落ち着いて進むのに必要だったからと考えられます
 主イエスはろばの上に座られました。(7)
 主の御姿を見た「非常に多くの群衆」が「自分たちの上着を道に敷き」ました。(8)
 「上着を道に敷く」ことは、王を迎えることを意味しました。(列王記 第二 9章13節p666)
 群衆は主イエスを王として迎えたのです。

2、柔和で謙遜な王として
 群衆は大声で詩篇118篇25-26節(p1059)のことばを叫び、主を賛美しました。(9)
 「ホサナ」(9)は「私たちを救ってください」という意味のことばです。そして、喜びや賛美の叫びでもあります。
 「木の枝」(8)は「なつめ椰子(やし)の枝」(「棕櫚(しゅろ)の枝」(口語訳))(ヨハネの福音書12章13節p208)のことです。(主イエスがエルサレムに入城された日を「棕櫚の主日 (パーム・サンデー)」と言う。)
 「主の御名によって来られる方」(9)はメシア(救い主)を指すことばです。
 当時、王は軍馬や戦車に乗って、移動していました。
 しかし、主イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入城されたのです。
 そのことは、主は柔和で謙遜な王としてエルサレムに入城されたことを示しています。
 主や弟子たちについて群衆はエルサレムの都(城内)に入って行きました。
 その大群衆を見て、事情を知らない都の人々は「この人はだれなのか」と尋ねます。(10)
 群衆は、主イエスのことを「…預言者イエスだ」と言いました。(11)
 ここでの「預言者」ということばは様々に解釈できます。
 申命記18章15節(p348)でモーセが語っている「私(モーセ)のような一人の預言者」はメシア(救い主)のことを意味しています。
 群衆がこの意味で言っていると受け止めると、彼らは主イエスに対して、彼らなりの「信仰告白」をしていたと理解することができます。

結 論) 私たちは新約聖書のことば、福音によって主イエスが神の御子、救い主、天の御国の真の王であることを示されています。
 私たちは主イエスを信じる者とされました。
 たとえ小さな存在であっても、主イエスをお乗せしたろばの子の栄光はどれほどだったことでしょう。
 主は私たちをもご自身のご用(宣教の働き等、様々な奉仕)のために必要としておられます。
 私たちも主のご用のために用いていただきましょう。
 子ろばのように、主イエスから与えられたそれぞれの役目、使命を主とともに果たしてまいりましょう。

(参考)
  『ちいろば先生物語』(三浦綾子著)
   榎本保郎(えのもと やすろう)牧師(1925-1977)