待降節 第3主日礼拝 2025.12.14
聖書箇所: ヨハネの福音書1章1-14節
説 教 題: 「すべての人を照らす光」
説 教 者: 辻林 和己師
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。…すべての人を照らすそのまことの光があって、世に来ようとしていた。 ヨハネの福音書1章5、9節 (p.175)
序 論)ヨハネは、この福音書の書き出しで「初めにことばがあった。…」(1)と記します。ヨハネの念頭には創世記1章1節の「はじめに神が天と地を創造された。」の言葉があったことでしょう。ヨハネはこの福音書で「人の新創造」について語ります。今回の箇所を通して示されることは…
1、光なるキリスト
当時、すでに福音がユダヤ人の間だけでなく、異邦人(地中海周辺世界 ギリシア語圏)の間にも広がっていました。
ヨハネは異邦人にキリストとはどのようなお方かを伝えようとしたのです。(1-18節は、初代教会の讃美歌として唱われていたのでは、という説もあります。)
ヨハネは、1節でキリスト(救い主)のことを「ことば(ギリシア語では「ロゴス」)」と表現しました。
この「ことば」であるキリストは、天地創造以前に「神と共におられた」(2)お方です。
神の御子キリストは、父なる神と永遠の交わりの中におられたお方なのです。創造のみわざは、「三位一体の神」(父なる神、御子なる神、聖霊なる神)によってなされました。「すべてのものは、この方(ロゴス)によって造られた。…」(3)
「世(世界)はこの方(御子キリスト)によって造られた…。」(10)のです。
「この方にはいのちがあった。」(4) 主イエスは、永遠のいのちそのものであられるお方、それを人に分かち与えられるお方です。そして、光としてこの世に来てくださいました。
ヨハネは、「罪の世」を「闇(やみ)」と言います。悪の力は闇(やみ)の力です。人が神様から離れるほど、闇の力は増すのです。
後に、弟子のユダが主イエスを裏切って去って行ったとき、このヨハネ福音書は「…時は夜(闇を象徴する言葉)であった。」(13章30節p.212)と語ります。
しかし「闇はこれ(キリスト)に打ち勝たなかった。」(5)のです。主イエスは、どんなに深く、濃い闇をも照らす神の光、命の光です。
父なる神様が、御子イエス様より前に地上に遣わされたのが洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)でした。ヨハネは、光である主イエスが神の御子、救い主であることを証しする使命を与えられていました(6-8)。
2、キリストを受け入れる者の特権
主イエスは「すべての人を照すらすそのまことの光」(9)としてこの地上に来てくださいました。「まことの」は「真実な」、「本当の」という意味です。キリストは、暗黒の世界に輝く唯一の、本当の光として来られました。
主イエスが「ご自分のところ」(11)に来られたのに、「ご自分の民」(11)は受け入れませんでした。これは、主はイスラエルの民のところに来られたのに、彼らは主を受け入れなかったという意味です。
イスラエルの民は主イエスを受け入れず、拒み、ユダヤの宗教指導者たちは、主を十字架につけてしまいました。
しかし、三日後に、神様は主イエスを復活させられました。罪も死も悪魔も「まことの光」を消すことはできませんでした。
イエス様を神の御子、救い主と信じ、心に受け入れた人はだれでも「神の子」とされる「特権」(「資格」新共同訳)を与えられるのです。それは神様の恵みです。(12)
先祖にだれかを持つということでも、人間的な力でも努力によるのでもありません。ただイエス様を神の子と信じることによって私たちは新生の恵みにあずかるのです。(13)
結 論) 主イエスは「恵みとまこととに満ちておられ」ました。(14)。「まこと」の原語は「真実」とも訳せる言葉です。
主イエスは、どんなときも真実なお方です。
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネによる福音書8章12節p.195)
「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」(詩篇119篇105節p.1065)
聖書のことば、そして聖書のことばが指し示す主イエスを光として私たちは歩みます。
イエス・キリストによって私たちを罪から救い、神の子となる特権を与えてくださった神様に感謝し、真実な主に信頼しつつ、歩み続けてまいりましょう。
(参考)
『ファウスト』ゲーテ(ドイツの文学者 1749-1832)
『光は暗きに照る』田辺保(フランス文学者 1930-2008)
