マタイの福音書19章13~22節

三位一体・第21主日礼拝    2025.11.2
聖書箇所: マタイの福音書19章13-22節
説 教 題:  「永遠のいのちを得るためには」
説 教 者:     辻林 和己師

すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」 マタイの福音書19章16節 (p.39)

序 論)ガリラヤからユダヤ地方に来られ、主イエスはパリサイ人や弟子たちに結婚について語られました。(1-12)
 そのとき、子どもたちが主のみもとに連れて来られます。(13a)
 その後、起こった出来事と主イエスの言行を通して示されることは

1.子どもたちを招かれる主イエス
 弟子たちは、子どもを連れて来た人たちを叱りました。(13b)
 彼らは、子どもたちが主イエスの妨げになってはいけないと気を遣ったのかもしれません。
 しかし、主は「子どもたちを来させなさい。…」(14bc)と招かれました。
 「天の御国」は「このような者たち」に与えられるのです。(14d)
 主イエスは、子どもたちの上に手を置かれてから別の場所に行かれました。(15)
 そこで一人の金持ちの青年が主イエスのみもとに来て尋ねます。(16a)
 彼は「永遠のいのち」を求めていました。(16b)
 彼は何か「良いことをすれば」それを得ることができる、と思っていました。(16b)
 主イエスは応えられます。(17)
 本当に「良い方」、完全に正しい方は「おひとり」、神様だけだと言われます。(17c)
 主は彼に「戒めを守りなさい」と言われ(17d)、十戒の中の対人に関する戒めを示されます。(18-19)  (出エジプト記20章12-16節p135)
 「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(19b)はレビ記19章18節(p212)のことばです。            

一人の青年を招かれる主イエス
 それを聞いた青年はさらに主イエスに尋ねます。(20)
 彼は、主が示されたそれらの戒めを守ってきたという自負がありました。
 しかし、それでいて永遠のいのちを得ている確信がありませんでした。
 そのため「何がまだ欠けているのでしょうか。」(20c) と主イエスに問わずにはいられませんでした。
 主は、青年に自分のすべての財産を売り払って貧しい人たちに施すように言われます。そしてご自身に従うことを求められました。(21)
 しかし、彼は自分の持っていた多くの財産への執着を捨てることができませんでした。(22b)
 神と富に兼ね仕えていた彼は、主イエスの命令に従うことはできず、「悲しみながら立ち去り」ました。(22a)(マタイの福音書6章24節p10)
 主はなぜ、青年にこのように対応されたのでしょう。
 主イエスは、何か良いことを行うこと(善行)が、永遠のいのちを得る条件ではないことに気づかせようとされたのです。
 彼は、主イエスの言われたことを行うことができない(戒めを完全には守ることができない)者であることをまず認めるべきだったのです。
 その上で、さらに主イエスにあわれみと罪の赦しを求めていくべきでした。
 マルコの福音書の並行箇所には、「イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。」と記されています。(マルコの福音書10章21節p88)
 主はこの青年をいつくしまれ、永遠のいのちに招こうとされたのです。 

結 論)主イエスは「いのち」そのものであるお方です。
 主はそのご愛と犠牲(十字架の死)によって私たちの罪を赦し、信じる者に永遠のいのちを与えてくださいました。(ヨハネの福音書3章16節p180)
 この青年とは対照的に、後に使徒パウロは律法とは何かを神様と自分自身に深く問い、主イエスを信じるという信仰により救いを得ました。(ローマ人への手紙3章20-22節p301)
 このように永遠のいのちは、主イエスを信じることによってのみ与えられるのです。
 今回の箇所では青年と「子どもたち」(13-15)が対比されています。
 子どもたちは無条件に親に信頼し、依存して生きています。
 私たちもただ主イエスのみもとに行き、主を求め、父なる神様にお頼りしつつ歩みましょう。

(参考)
 アッシジのフランチェスコ(1182-1226)
 『ブラザー・サン シスター・ムーン』(1972)
 (フランチェスコを主人公として製作された映画)