三位一体・第17主日礼拝 2025.10.5
聖書箇所: マタイの福音書18章21-35節
説 教 題: 「罪赦された者」
説 教 者: 辻林 和己師
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
マタイの福音書18章21-22節 (p.37)
序 論)主イエスは弟子たちに「天の御国」について、そして「小さい者たち」への配慮について語られました。(18章1-20節)
弟子のペテロが主にお尋ねしました。(21)
主イエスが答えられたこととその後で語られたたとえ話を通して示されることは…
1.多額の負債を赦された家来
当時、ラビ(ユダヤ教の教師)は三回までは隣人に罪の赦しを請うことができると教えていたと言われています。
そのこともあり、ペテロは「七度まで」で十分と考えてこのように主イエスに質問したのでしょう。(21)
しかし、主イエスは「…七回を七十倍するまでです」と答えられました。(22)
ユダヤでは「七」は完全数とされていますが、ここで主が言われているのは「限りなく赦しなさい」という意味です。
続いて主イエスは「赦す」ことについて弟子たちに教えるために一つのたとえ話をなさいました。(23-34)
「一デナリ」は当時の一日の労働賃金でした。
「一タラント」は「六千デナリ」ですから、「一万タラント」(24)は膨大な額になります。
ある人の計算によると「十六万年分の労賃」とのことです。(現在の日本円に換算すると約六千億円。)
「王である一人の人」(23)(「主君」(25))に対してこのような多大な額の負債をしていた家来がいました。
家来は王にひれ伏して拝し、赦しを請います。(26)
王は彼の負債を免除してやりました。(27)
それは王が彼を「かわいそうに思った」からでした。 (「あわれに思って」(口語訳)、「憐れに思って」(新共同訳))
2.仲間の負債を赦さない悪い家来
この家来が家に帰る途中、自分が「百デナリ」貸している仲間の一人に出会いました。(28a)(現在の日本円に換算すると約百万円)
彼は自分の仲間には容赦なく借金の返済を迫りました。(28b)
仲間は家来にひれ伏して、猶予を懇願します。(29)
しかし、彼は仲間の願いをかたくなに拒絶し、彼を牢に放り込むというひどい仕打ちをしました。(30)
事の成り行きを見ていた他の家来たちは、この二人の仲間(家来)のことで「非常に心を痛め」その一部始終を、王(主君)に話しました。(31)
それを聞いた王はその家来を呼びつけて言います。(32a)
王は彼を「悪い家来」と呼びました。(32b)
王は、私が家来をあわれんでやったように、彼も仲間をあわれんでやるべきだった、と言います。(32c-33)
こうして、王は怒り、一度赦した家来を牢に入れるため獄吏に引き渡しました。(34)
このように主イエスは、父なる神様を王(主君)、ペテロや他の弟子たちを家来に、「自分の兄弟」(35)を家来の仲間にたとえて話されました。
主はこのたとえ話を通して、まず「天の父」(父なる神様)が弟子たち(私たち)を赦してくださったこと、そして赦された弟子たち(私たち)は他の人(兄弟たち)を赦すことを、神様が望んでおられることを教えてくださったのです。(35)
結 論)主イエスがたとえ話の中で語られた「莫大な負債」は、神様に対する私たちの計りがたいほどの大きな罪を表しています。
最初に主イエスにお尋ねしたときのペテロは、まだ自分をこの家来の立場に置いて、このたとえを受け止めてはいなかったのです。
この家来の姿が私自身の姿でもあることを示され、心を刺されます。
また家来の仲間たちのように、苦しんでいる仲間に対して「心を痛めて」いるだろうかと問われます。(31)
このような私たちのあまりにも大きく深い罪を、神様はあわれみと主イエスの御苦しみと十字架の死によって赦されました。
私たちの罪という大きな「負債」の「免除」(27)は、主の十字架という「代価」が払われたことによるのです。 「神様、あの人を赦せない私をどうかあわれんでください」と主イエスのみもとに行き、十字架を仰ぐとき、私たちは主によって赦されたものであることを新たに示されます。
神様のあわれみにより罪の赦しをいただいた私たちは、自分の周りの人たち(隣人)を赦し、愛する者へと少しずつ変えられていくのです。(エペソ人への手紙4章32節p389)