マタイの福音書17章22~27節

三位一体・第13主日礼拝    2025.9.7
聖書箇所: マタイの福音書17章22-27節
説 教 題:  「神の子とされた者たち」
説 教 者:     辻林 和己師

彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」
ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。…             マタイの福音書17章25-26節 (p.35)

序 論)主イエスは弟子たちと共に、ピリポ・カイサリアの地方から、ガリラヤ湖に近い場所に行かれました。(22a)(16章13節p33参照)
 そこで主が弟子たちに語られたこと、その後のペテロとのやりとりを通して示されることは…

1.二度目の受難予告
 主イエスは集まっていた弟子たちに二度目の受難予告をされます。(22b-23a)
 それを聞いた彼らはとても悲しみました。(23b) 
 しかし、彼らは主イエスの御苦しみを思って悲しんだのでしょうか。この時はまだ、ただ自分たちの将来はどうなるのだろう、と不安と恐れの思いの方が強かったことでしょう。
 そのため、このとき主がなされていた「復活の予告」は、彼らの心に全く響いていませんでした。
 その後、主イエスと弟子たちはカペナウムに着かれました。(24a)
 そこには、ペテロの家があったと言われています。
 そのとき、神殿税を集める人たちが、ペテロのところに近寄って来ました。(24a) (「神殿税」の直訳は「2ドラクマ」でこの起源は、出エジプト記30章11-16節(p154)に記されている「主への奉納物」。労働者の二日分の労賃。納める時期は過越の祭りの近づいた頃。)
 彼らはペテロに「あなたがたの先生」、主イエスは神殿税を納めないのか、と尋ねます。(24b)
 彼は、主はこれまでの宮の納入金(神殿税)を納めてきたし、これからもそうされます、という意味を込めて「納めます」と答えました。(25a) 

2、罪から解放され、神の子とされた者たち
 そのとき、主イエスはペテロの家の中におられました。
 ペテロは、神殿税の件を主にお話しする必要があると思い、家に入りました。(25b)
 主はこの事のすべてをすでにご存じでした。
 主イエスはペテロが話す前に、彼に尋ねられました。 (25cde)
 彼は答え、主はさらに語られます。(26)
 当時、「税」は取税人によって取り立てられる通行税や関税等、「貢ぎ物」は個人に課税される人頭税で、ローマ帝国に直接、納められていました。
 ローマ皇帝のような「地上の王たち」の「自分の子たち」は、王に税や貢を納めません。(25de)
 同様に、神殿でイスラエルの民が礼拝する「神様」(父なる神)の御子イエス様も納める必要はないことをペテロに示されたのです。(神様を「王」に、ご自身を「王の子」にたとえて語られている。)
 最後に主イエスはペテロに命じられます。(27)
 主イエスは本来、税金を払う必要のないお方でしたが、このとき、「あの人たち」(神殿税を集める人たち)を「つまずかせないために」配慮されました。(27a)
 ペテロにガリラヤ湖で魚を釣り、最初に釣れた魚の口の中にある「スタテル銀貨一枚」(二人(主とペテロの)分の神殿税に相当)を納めるように指示されました。(27b)
 このような方法を用いられたのは、あくまでもご自分に納入義務がないことを弟子たちに明らかになさるためだったと考えられます。
 この後、主イエスは弟子たちと共に南下され、エルサレムに向かわれます。                    

結 論)悪霊をただちに追い出し、子どもを癒される全能のお方(18)、ペテロの言行や湖の魚の口中の銀貨まで「お見通し」の全知のお方、税を集める人たちにも配慮される愛のお方
 そのような神の御子であられる主イエスが、なぜ「人々の手に渡され、彼らに殺され」(十字架で死な)なければならなかったのでしょう。(22b-23a)
 それは、私たちを罪から救い、神の子とするためでした。
 「子たちにはその義務はない」(26b)の原文直訳は「子たちは解放されている(自由である)」です。「子たち」は、主イエスと弟子たち(私たち)のことであり、26b節のみことばは、私たちは主イエスによって罪の奴隷から解放され、自由の身とされていることを暗示していると受け止めることができます。
 主イエスを神の御子、救い主と信じる者は、うちに聖霊(神の霊、御子の御霊)が与えられ、神の子とされています。(ガラテヤ人への手紙4章6節p379、コリント人への手紙 第一 3章16節p330)
 主イエスによって神の子とされた恵みに感謝し、神様を礼拝しつつ、歩みましょう。