三位一体・第12主日礼拝 2025.8.31
聖書箇所: マタイの福音書17章14-20節
説 教 題: 「からし種ほどの信仰」
説 教 者: 辻林 和己師
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」
マタイの福音書17章20節 (p.35)
序 論)主イエスは登られた高い山で、三人の弟子たちにご自身の本来の栄光の御姿を現わされました。(1-2)
その後、主は弟子たちと一緒に山を下られ、群衆のところに行かれます。(14)
そのとき起こった出来事と主イエスの言行を通して示されることは…
1.主イエスに助けを求めた一人の人
一人の人が主イエスに助けを求めました。(14-15)
彼には「一人息子」がいました。(ルカの福音書9章38節p132)
その子は「幼い時から」てんかんで苦しんでいました。 (マルコの福音書9章21節p85)
「何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れる」という異常な状態に示されるように、その病は人の力を超えた悪霊によるものでした。(15)
主イエスが山に登っておられる間、弟子たちはこの子を癒そうとしましたが、出来ませんでした。(16)
主はそれを聞いて嘆かれました。(17)
弟子たちは、前に主イエスから悪霊を追い出す権威を与えられました。(マタイの福音書10章8節p18)
「不信仰な曲がった時代」(17)と言われる主のことばは、かつてモーセが当時の人々について「自分の汚れで主との交わりを損なう、主の子らではない、よこしまで曲がった世代」と嘆いたことばと重なります。(申命記32章5節p373)
モーセの時代や主イエスが地上におられた時代のように今も、神を信じず、神にまっすぐ心を向けない人たちが多くいる時代です。
弟子たちをはじめ、天からのしるしを求めたパリサイ人やサドカイ人たち、そしてこの息子の父親の姿にも、この不信仰な時代の人々の姿が現われています。 (マタイの福音書16章1、4節p32)
2.神の御前にへりくだって求める
マルコの福音書にはさらに主イエスに助けを求める父親のことばが記されています。(マルコ9章24節p85)
主は、父親に息子を連れて来るように言われ、悪霊を追い出し、彼を癒されました。(17e-18)
弟子たちは恥ずかしかったことでしょう。それでも自分たちの無力の原因を知ろうと主イエスにお尋ねします。 (19)
主は彼らの信仰の薄さを指摘されました。(20a)
彼らは、自分たちを通して働かれる神の力を信頼していなかったからでした。その点で弟子たちも「不信仰な曲がった時代」(17)の影響から免れてはいませんでした。
主イエスは、「からし種ほどの信仰」、どんなに小さくても本当に信仰があるなら、山を移すような不可能と思えることが成し遂げられる、と言われます。(20) (「この山」は今、主が降りて来られたばかりの山を指して言われている。「山を移す」はユダヤ人の慣用句で「困難な問題を解決する」という意味。)
21節は『新改訳2017』の欄外の脚注に記されているように、有力な写本には載っていません。
「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」(脚注21節)
「祈り」は、神様の御前にへりくだって求めることの表われです。
「断食」は神と隣人への愛と克己(こっき)の精神の表われです。
結 論)神の御子であられるお方、主イエスは人となられ、十字架の死に至るまでへりくだり、私たちのために救いの道を開いてくださいました。(ピリピ人への手紙2章5-11節p396)
私たちは、主の御名を通して、父なる神様に祈ることができます。
マルコの福音書に記されている父親のことばのように、私たちも自分の不信仰な思いや信仰の薄さを正直に認め、神様に求めましょう。
たとえ小さな祈りであっても、神様はその祈りを聞かれ応えてくださいます。
救霊のため、様々な課題のため、神様に日々、祈ってまいりましょう。 (ピリピ人への手紙4章6-7節p399)
(参考) 『キリストの変容』
イタリアのルネサンス期の画家
ラファエロ・サンティ(1483-1520)の作品
バチカン美術館所蔵