三位一体・第10主日礼拝 2025.8.17
聖書箇所: マタイの福音書16章21-28節
説 教 題: 「死と復活の予告」
説 教 者: 辻林 和己師
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。 マタイの福音書16章21節 (p.34)
序 論)ピリポ・カイサリア地方で、主イエスに対し、ペテロは信仰告白しました。(15-16)
主は彼の告白を喜ばれました。(17)
その後の、主のみことば、ペテロや弟子たちとのやりとりを通して示されることは…
1.受難と死と復活の予告
主イエスは弟子たちにご自身の受難と復活を予告されました。(21)
主は神様のご計画に従い、エルサレムに行こうとしておられました。
「長老たち、祭司長たち、律法学者たち」(21)は、当時の「サンヘドリン(最高宗教議会)」に属する人たちでした。
「よみがえる」の原語は受身形です。父なる神様が御子イエス様を復活させられる、ということが示されています。
ユダヤの日数の数え方はその日を含みます。ここでの「三日」は金、土、日曜日を指して言われています。
このときの弟子たちは、メシア(救い主)はローマ帝国の圧政から解放してくださる方だと思っていました。
苦難と死の予告を聞いた弟子たちは、驚き恐れました。
ペテロは主イエスを「わきにお連れして、いさめ始め」ました。(22)
「とんでもないことです」の原文の直訳は「あなたにあわれみがありますように」です。これは「神様があなたをあわれんで、そんなひどい目にあわせられませんように」という意味が込められています。主のことばに対する強い否定が込められていました。
この時の弟子たちは、主イエスの苦難や復活が理解できず、ペテロは主のことを心配して忠告しました。
しかし、主イエスは容赦なく「下がれ、サタン。…」と彼のことばを退けられました。(23)
このことばの直訳は「退け、わたしの後ろに、サタン」で、他に例のない強い拒絶を意味することばでした。
このとき主の前に立ったペテロは、荒野で苦難を避けるよう誘惑した、サタン(悪魔)の立場に立ってしまっていたのです。 (マタイの福音書4章1-11節p5)
ペテロや他の弟子たちは、主イエスがキリスト(救い主)であるからこそ、苦難を受け、十字架で死なれることをまだ理解できていなかったのです。
2.主のいのちの代価により
主イエスはさらに弟子たちに語られます。(24)
十字架に向かって歩まれる主イエスに従う道は、「自分を捨て、自分の十字架を負って」歩む道です。
「自分を捨て」は自己中心ではなく、神中心に生きることです。
迫害等のため、信仰を捨て、自己中心的な営みをし、自分のいのちを守ろうとするものは主にある真のいのち、永遠のいのちを失います。(25)
しかし、自分を捨て、主に従う者は永遠のいのちに生かされるのです。
「たとえ全世界を手に入れても」(26)は、人間の名利追及の心を示しています。このような欲心のために自分のいのちを滅ぼしてしまったら何の益があるでしょう。(26a)
そのいのちは全世界をもってしても買い戻すことはできません。(26b)(詩篇49篇6-8節p982)
「人の子」(27a)は、主イエスがご自身を指して言われることばです。
主はご自身の再臨を予告されました。そして、主に従う者への報いを約束されました。(27)
「ここに立っている人たち」(28)は、このとき主イエスが語っておられた弟子たちや群衆のことです。
復活され、昇天し、神の右の座におられる主イエスはやがて「御国とともに」再臨されるのです。(28)
結 論)人を罪から救い、贖われるのは神様のみわざです。(詩篇49篇15篇p983)
父なる神様は御子イエス様の受難、十字架の死と復活を通して、私たちを罪から贖ってくださいました。
主イエスはご自身のいのちを献げて、私たちを救い出してくださったのです。 (コリント人への手紙 第一 6章20節p334)
ペテロは主イエスが十字架にかかられる前に他の弟子たちと同様、主を見捨て逃げ出し、主を裏切ってしまいました。しかし、復活の主にお出会いしてから、ペテロは生涯、主の御足の後に従いました。 (ペテロの手紙 第一 2章21-25節p468)
聖霊降臨日(ペンテコステ)以降、私たちは、聖霊の導きとみことばによって、今、置かれている所で、主を呼び求め、主と共に歩むことができます。
主イエスに従う道を歩み続けましょう。