三位一体・第8主日礼拝 2025.8.3
聖書箇所: マタイの福音書16章1-12節
説 教 題: 「警戒すべきパン種」
説 教 者: 辻林 和己師
「…わたしが言ったのはパンのことではないと、どうして分からないのですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。」そのとき彼らは、用心するようにとイエスが言われたのはパン種ではなく、パリサイ人たちやサドカイ人たちの教えであることを悟った。 マタイの福音書16章11-12節 (p.33)
序 論)マガダン地方(ガリラヤ湖の西側にあったと言われている)におられた主イエスのもとに、パリサイ人たちやサドカイ人たちが近づいて来ました。(1)
主と彼らとのやりとり、後に主が弟子たちに語られたことを通して示されることは…
1.ヨナのしるし
パリサイ人たちやサドカイ人たちは、主イエスに「天からのしるし」(1)を求めます。 (12章38節p24参照)
それは、主イエスがメシア(救い主)であることを証しする奇跡的な出来事でした。
天からのしるしを求める彼らは主イエスがどのようなお方かを知ろうとも、受け入れようともしませんでした。
主は彼らに答えられます。(2-3)
彼らは夕焼けや朝焼けという「空模様」(空に現れたしるし)によって、天候を判断していました。
しかし、主イエスが地上に来られ、言行を通して示されている「時のしるし」(既に救い主が到来しておられるというしるし)を見分けることができませんでした。(3)
彼らの心の頑なさを主は嘆かれたのです。
さらに主イエスは語られます。(4)
「姦淫の時代」とは、神様に対する背信、不真実な時代という意味です。(4a)
この時代の人たちの求める「しるし」は、自分たちが納得できるような目に見える奇跡でした。
しかし、主は「ヨナのしるし」だけが与えられる、と言われます。(4b)(12章39-40節p24) (ヨナ書1章17節p1578)
これは、主イエスご自身の十字架の死と復活を暗示するみことばでした。
2.パリサイ人たちやサドカイ人たちの教え
主イエスは弟子たちと一緒に「向こう岸」(ガリラヤ湖の東側)に渡られます。(5)
そのとき、パンを持って来るのを忘れていた弟子たちに主は語られました。(6)
当時、異邦の地を旅するユダヤ人は、その地のパンを食べないように自分でパンを携帯していました。
パンを忘れた弟子たちは、そのことで叱られたと思い、互いに論じ始めます。(7)
そうした、彼らに主イエスはさらに言われます。(8-10)
主は彼らを「信仰の薄い人たち」(8)と呼ばれます。
それは彼らがパンのことで心を乱していたからです。
また、彼らはパンの奇跡を二度も見ながら、神の御力を主イエスが持っておられることを忘れていたからでした。(9-11a) (14章19-21節p29、15章35-38節p32)
続いて主は「…パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい」(「…警戒しなさい」(口語訳))(11b)と語られます。
ここで言われる「パン種」とは「パリサイ人たちやサドカイ人たちの教えである…」と記されています。(12)
ここでの「パン種」は、いつの間にか人の心に浸透し、強い影響力を発揮する偽善や罪にたとえられています。
パリサイ人たちは形式的に律法を守ることにこだわり、その結果、神様から心が遠く離れるという偽善に陥っていました。(15章7-9節p30)
サドカイ人たちは政治的権力と結託し、物欲や金銭欲にとらわれ、世俗主義になっていました。
主イエスは彼らの偽善や罪を指摘されました。そして、弟子たちに彼らのようになるなと戒められたのです。
結 論)パリサイ人もサドカイ人も、主イエスを救い主と認めませんでした。
彼らの言動に、人の罪の姿が映し出されています。
主イエスはすべて人の罪の罰を十字架の上で一身に受けて死なれ、三日後に復活されました。
主イエスを神の御子、救い主と信じる者は罪赦され、心に聖霊の注ぎをいただくのです。
今回の箇所とは逆に「パン種」が、天の御国のたとえとして用いられている箇所もあります。(13章33節p27)
このパン種はみことばと聖霊の力だと受け止めることができます。
聖霊とみことばによって、様々な罪の誘惑に打ち勝つ力をいただき、主を証ししてまいりましょう。
(参考)
「ヨナのしるし」『聖書百話』
(北森嘉蔵(かぞう)(1916-1988)牧師、神学者)著)