マタイの福音書15章1~20節

三位一体・第5主日礼拝      2025.7.13
聖書箇所: マタイの福音書15章1―20節
説 教 題: 「心の汚れときよめ」
説 教 者:     辻林 和己師

偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。…』…しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。   マタイの福音書15章7-8、11節 (p.30)

序 論)エルサレムからパリサイ人たちや律法学者たちが、主イエスのところにやって来ました。
 彼らは主に対して殺意をいだいていました。 (12章14節p22)
 主と彼らのやりとりと主のみことばを通して示されることは…

1.形だけのきよめ
 彼らは、主イエスにあなたの弟子たちが「長老たちの言い伝えを破る」のはなぜか、と詰問しました。(2)
 彼らの言う「手を洗う」(2b)ことは、衛生上の問題では なく口伝(くでん)(言い伝え)の規定でした。
 主イエスは、そうした言い伝えを守ろうとする彼らこそ 神の戒めにそむいていると指摘されます。(3-6)
 彼らは、神に供え物として献げるという美名に隠れて、 父母への扶養を怠っていました。(5-6)
 人間の言い伝えが「父と母を敬え」という最も大切な「神のことば」である十戒の一つを破る口実になっていたのです。(4)(第五戒 出エジプト記20章12節p135)(出エジプト記21章17節p137、レビ記20章9節p214)
 律法学者やパリサイ人たちは、人間の言い伝えのために 神のことば(神の律法)を無にするという大きな罪を犯していました。
 主イエスはイザヤ書のことばを引用して、彼らの偽善を 指摘されます。(7-9)(イザヤ書29章13節p1211)
 「人間の命令(言い伝え)」(9)を権威あるものとして教えること、それは彼らが口先では神様を敬っても、心は神様から遠く離れている状態の現われでした。  

2、主によるきよめ
 パリサイ人たちは去りました。そこで主イエスは群衆を呼ばれ、彼らと弟子たちに語られます。(10-11)
 「口から入るもの」(食物)ではなく、「口から出るもの」 (悪い言葉とその奥にある人の心)が人を汚すと言われます。
 弟子たちは主イエスに尋ねます。(12)
 主は腹を立てて去ったパリサイ人たちは放っておくようにと答えられます。(14a)
 主は彼らが天の父なる神様のお植えにならなかった木だと言われます。(13)
 彼らは人の教えに頼っていて、神のことばによる信仰の ない者たちであり、霊的な盲目の状態に陥っていると断言 されました。(14b)
 彼らも、彼らに従う者たちも、破滅に向かって歩んでいました。(14c) (「穴に落ちる」は破滅を意味する旧約の表現。               詩篇7章15節p939等)
 弟子たちを代表してペテロが主イエスに尋ねます。(15)
 主は説明されます。(16-20)
 心の中に生じる「悪い考え」(19)や悪い思いが、具体的な様々な悪い言葉や悪行となって現れてきます。
 「殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証」(19)は、十戒の第六~九戒に反することです。(出エジプト記20章13-16節p135)
 これらのものは人の心から出て、人の心を汚します。
 このように手を洗う等の形式的な儀式は心に及ぶことはできないし、心をきよめることはできません。  

結 論)「ののしり」(19)が挙げられているように、言葉一つをとってみても、私たちはそれによってどれほど、自分や他者の心を傷つけていることでしょう。
 心の中の様々な悪い思いや汚れは、人間の罪から生じます。そして、罪の根本原因は、私たちの心が天の父なる神様から「遠く離れている」(8)ことにあります。
 罪や心の内の悪い思いは自分の力では取り除くことができません。そのような私たちを罪から救うために、主イエスはこの地に来られたのです。
 そして、主は十字架で死なれ、復活されました。
 主イエスを信じ、救いにあずかった私たちの心を神様は聖霊とみことばによって、きよめ続けてくださるのです。そして、私たちが愛ある言葉を語り、良い行いができるよう助け、導いてくださいます。
 以前、ある牧師から「認罪が来たら(認罪の思いが与えられたら)感謝だ」という言葉を聞きました。
 私たちは日々の生活の中で、自らの言行を通して心の汚れ、内なる罪を示されるときがあります。
 そのときこそ、悔い改め、心を神様に向け、十字架の主イエスを仰ぎましょう。
 主が十字架で流された血と聖霊による罪の赦しときよめの恵みをさらに感謝して受け取りましょう。