マタイの福音書13章53~58節、14章1-12節

三位一体・第2主日礼拝      
聖書箇所: マタイの福音書13章53―58節、14章1-12節
説 教 題: 「洗礼者ヨハネと国主ヘロデ」
説 教 者:     辻林 和己師

こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」  マタイの福音書13章57節 (p.28)

序 論)群衆や弟子たちにたとえを話された主イエスは、その後、「ご自分の故郷」(ナザレ)に行かれました。 (53-54a)
 そこで起こった出来事、そして洗礼者ヨハネと国主ヘロデの言行を通して示されることは…

1.主イエスの郷里の人々の不信仰
 主イエスの教えを聞き、なされたみわざを見た郷里の人々は、主の「知恵と奇跡を行う力」に驚きました。(54)
 彼らは主の知恵と力を不思議に思いましたが、それは信仰につながりませんでした。
 彼らにとって主イエスはただ「大工の息子」であり、主の母(マリア)も兄弟姉妹も身近な者たちでした。
 それゆえ、彼らは、主イエスがメシア(救い主)であるとは思えなかったのです。(55-56a) (「この人」(55)は軽蔑を込めた表現。)
 彼らは、主が「これらのもの」(知恵と御力)をどこから得たのか、わかりませんでした。(56b)
 主の知恵と御力は父なる神様との交わりから来ていることを彼らは知らなかったのです。(マタイの福音書11章27節p21)
 彼らは主イエスをただの人間と見ていたので、主を神の御子、救い主と信じることができませんでした。(57a)
 「つまずく」は、主イエスへの不信仰を示す言葉です。
 主は郷里ナザレの人々の不信仰を嘆かれました。 (57bc)
  主が郷里で受け入れられなかったことは、ユダヤの民が主を神の御子、救い主と認めなかったことを象徴する出来事でした。

2、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)の死
 「ヘロデ・アンティパス」はヘロデ大王の領土の一部ガリラヤとペレヤを継承した領主(国主)でした。(1)  (マタイの福音書2章1節p2参照)
 ヘロデは主イエスのうわさを聞いて、以前に自分が殺害したバプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)のよみがえりではないかと恐れました。(2)
 3-12節はヨハネが亡き者とされた事情が記されています。
 ヘロデは妻と無理やり離縁し、異母兄弟の妻だったヘロディアを自分の妻としました。(3)
 ヨハネはヘロデのこの行いが不法だと糾弾します。(4)
 彼はヨハネを牢に入れましたが、気持ちは揺れていました。(5)(マルコの福音書6章19-20節p77)
 自分の誕生祝いの席でヘロデはヘロディアの娘サロメの踊りを見て喜びました。そして、彼はサロメに「求める物はなんでも与える」と誓ってしまいました。(6-7)
 母へロディアの入れ知恵でサロメはヨハネの首を求めました。(8)
 ヘロデは後悔しましたが、対面上撤回することはできず、ヨハネを斬首しました。(9-11)
 ヘロデは不倫と殺人の罪を犯してしまったのです。
 その後、ヨハネの弟子たちが、師の遺体を引き取りました。(12)
 四つの福音書に記されているようにヨハネは義を貫き、その生涯を終えました。
 一方、後に、ヘロデはローマ皇帝により領地を没収され、ガリア(今のフランスの地域)に流刑となり、そこで生涯を終えました。

結 論)郷里ナザレの人々もヘロデも、父なる神のもとから地上に来られた主イエスを信じることができませんでした。
 ナザレの人々の不信仰や十戒を破り、人の非難や嘲笑を恐れ、自分の面子を最優先するヘロデの言行は、人間の罪の姿の表われでもあります。
 かつてバプテスマのヨハネが、主イエスを指して「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」と主を証ししました。(ヨハネの福音書1章29節p176)
 このことばの通り、主イエスは神の子羊としてすべての人が受けるべき罪の罰を十字架の上で受け、血潮を流され死なれたのです。そして復活されました。
 主イエスを救い主、神の御子と信じる者は罪赦され、新しくされて歩むことができます。
 主によって罪赦され、永遠のいのちに生かされていることを覚え、主に従い、歩みを続けてまいりましょう。

 (参考)
  『われわれ自身のなかのヒトラー』
   (マックス・ピカート 1888-1963  スイスの医師・著述家)