三位一体・第1主日礼拝 2025.6.15
聖書箇所: 使徒の働き3章1―10節
説 教 題: 「主イエスの名によって歩きなさい」
説 教 者: 辻林 和己師
すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」使徒の働き3章6節 (p.237)
序 論)ある日、主イエスの弟子のペテロとヨハネは、午後3時の祈りをささげるために、宮(エルサレムの神殿)に上って行きました。(1)
そこに、一人の男の人がかかえられてきました。彼は生まれつき足が不自由で、自分の力では歩くことができませんでした。神殿の中で礼拝することも許されていませんでした。(2)(レビ記21章18-20節 p.216)
彼は、ペテロとヨハネに出会います。(3)
ペテロが彼に語ったことばとその時、起こった出来事を通して示されることは…
1.私たちを見なさい
この人は40歳ぐらいの人でした(4章22節)。彼は宮の「美しの門」と言われるところに座っていました。(2)
彼は物乞いとなり、神殿に礼拝に来る人々から施しを受けて生きていくしかなかったのです。生きるためにお金をもらうことが彼の目的になり、それ以外のことはあきらめていたり、絶望していたかもしれません。
ペテロとヨハネを見て彼は施しを求めました。(3)
二人は彼をじっと見つめました(4)。彼らの力のこもった視線でした。ここでの「じっと見る」は「焦点を合わせる」というような意味があります。ただ漠然と見るのではなく、相手に焦点を合わせてしっかり見つめることです。
そしてペテロはこの人に向って今度は「私たちを見なさい」(4)と言いました。ペテロとヨハネは彼をじっと見、それと同じように、この人にも彼らのことを、しっかり見つめることを求めたのです。
ペテロがここで言っている「私たち」は、主イエスを信じ、罪赦され、主と共に生きている自分たちのことです。
私たちもペテロたちと同じように主イエスによって罪赦され、生かされている者たちです。
2.イエス・キリストの名によって歩きなさい
「何かもらえる」と期待した目の不自由な人は二人に「目を注いだ」(5)(「じっと見つめ続けた」という意味の言葉が用いられている)のです。
彼に対して、ペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい。」(6)と言いました。
それだけでなく、ペテロはこの男の人の右手を取って起こしてあげました。(7)
すると、彼の足とくるぶしがたちどころに強くなり、彼は踊り上がって立ち、歩き出したのです。(8)
「すると彼は躍り上がってシャンと立った。それから歩き出した。」(8節 織田昭訳)
「私にあるもの」(6)は、イエス・キリストを信じる信仰、主イエスによっていただいた救いの恵み、聖霊によって私たちの内に生きておられる主イエスご自身のことだと受け止めることができます。
ここでの「名」は、主イエスが一緒にいて下さること、主の権威、御力、命そのものを表しています。
「イエス・キリストの名によって歩く」とは、主イエス様を神の御子、私の救い主と信じ、従い、主と共に歩き続けていくことです。
聖書を読み、みことばに触れ、主イエスの御名によって父なる神様に祈りながら歩き続けていくことです。
この人の足は癒されました。今までは、物乞いをして生活していた人が、自分の足で歩き「神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った」(8)のです。
彼がペテロたちと共に神殿の境内の中に入っていったのは、神様に感謝の祈りをささげるためでした。そして、「二人と一緒に」(8)は彼が使徒たち(弟子たち)の教えに聞き従う者となったことを示しています。
彼の身に起こったことを見た人々は非常に驚きました。(9-10)
彼はこの後、教会に連なる信仰者の一人になったことでしょう。(4章22節に年齢が記されていることがそれを暗示している) 自分の力で働いて生活することもできたことでしょう。
結 論)この人の足は癒されました。宮で神を礼拝し、祈る者へと変えられました。
癒された後、彼はもとの生活へと戻っていったのではなく、自分の心身のいのちが新しくされ、新たな生涯の歩み、主イエスと共に神様への祈りと賛美をささげつつ歩む生活が開かれました。
私たちも、主イエスによって救われ、変えられた者たちです。主イエスの御名、それは私たちに生きる力を与えてくれま す。さらに主イエスからの希望と愛を心に与えてくれます。主と共に歩き続けてまいりましょう。
(参考)織田昭(1927-2008) 牧師、ギリシア語学者