マタイの福音書13章44~52節

復活節 第7主日礼拝          2025.6.1
 聖書箇所: マタイの福音書13章44-52節
 説 教 題: 「隠された宝」
 説 教 者:     辻林 和己師

天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。          マタイの福音書13章44節 (p.27)

序 論)主イエスは天の御国について群衆や弟子たちに教えるため「毒麦のたとえ」(24-30、36-43)、「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」(31-35)を語られました。
 続いて主は弟子たちに「宝と真珠のたとえ」、「地引き網のたとえ」、「一家の主人のたとえ」を語られます。
 これらのたとえを通して示されることは…

本 論)
1.天の御国の持つ価値
 当時、自分の宝が盗まれないように地中に埋めることはよくあることでした。
 他人の所有する畑で宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきました。(44ab)
 彼はその畑(土地)を、何とか手に入れようとしてお金を作り、それを買いました。(44c)
 このたとえでは、天の御国が宝にたとえられています。
 宝を見つけた人が「喜びのあまり」全財産を売り払ってもそれを獲得しようとするように、天の御国は他の何物にも比べられない大きな価値があることをこのたとえは示しています。
 次に主イエスは「真珠のたとえ」を語られます。(45-46)
 「真珠」は当時ペルシア湾やアラビア海の沿岸で取れ、最も美しいものとみなされていました。
 この商人は遠く旅をして、「良い真珠」(45)を探していました。
 彼はやっと「高価な真珠」を一つ見つけ、自分の全財産と引き換えにそれを手に入れます。(46)
 このたとえでは、天の御国が真珠にたとえられています。
 最初のたとえでは宝は偶然に発見されましたが、後者のたとえでは真珠は捜し回った結果、発見されました。
 これらのたとえのように偶然に思えるような出来事を通して、主イエスを信じ、天の御国に招き入れられる者もいれば、長い求道の後に、主イエスとお出会いする者もいます。
 どちらの場合にしても、主によって天の御国に招き入れられた者には他のものでは得られない大きな喜びと感動が与えられます。
 そして、何かの犠牲を払うことを通し、天の御国の価値をさらに知ることができるのです。

2. 世の終わりのさばき
 続いて主イエスは「地引き網のたとえ」(47-50)を語られます。
 このたとえは「毒麦のたとえ」(24-30、36-43)と同様に「世の終わりのさばき」についての厳粛な警告を意味しています。  「福音宣教による天の御国への招き」が「網」(地引き網)による漁にたとえられています。(47)
 この網は、「良いもの」も「悪いもの」もすべて包含します。
 しかし、「この世の終わり」にはそれぞれに対して正しいさばきがなされます。(48-50)
 これらのたとえを通して、主イエスは天の御国の真理を弟子たちに語られました。主は彼らに尋ねられ、彼らは応えます。(51)
 最後に主イエスは弟子たちに「一家の主人のたとえ」を語られます。(52)
 「天の御国の弟子となった学者」は天の御国の真理を示された弟子たちのことです。
 「新しい物」とは、主イエスによって明らかにされた「福音」であり、「古い物」とは「ご自分について聖書全体(旧約聖書)に書いてあること」(ルカの福音書24章 27節p173)だと受け止めることができます。
 主の弟子たちは、旧約聖書に書かれたことばを引用し、イエス様が神の子、救い主であることを証し続けたのです。

結 論) 使徒パウロは「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに…」と、主イエスが何物にも代えることができない尊いお方であることを証ししています。(ピリピ人への手紙3章8節p398)
 私たちにとって「古い物」は旧約聖書、「新しい物」は新約聖書を示していると受け止めることができます。
 私たちには、旧約聖書、新約聖書の両方が与えられています。
 聖書のみことばを求め、主イエスをさらに知り、交わりを深めてまいりましょう。
 聖書のみことばを通して、主イエスを周りの人たちに 証ししてまいりましょう。