マタイの福音書13章24~43節

復活節 第6主日礼拝        2025.5.25
 聖書箇所: マタイの福音書13章24-43節
 説 教 題: 「天の御国の三つのたとえ」
 説 教 者:     辻林 和己師

イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」        マタイの福音書13章31-32節 (p.26)

序 論)主イエスは群衆や弟子たちに「種蒔きのたとえ」を語られました。(13章1-23節p25)
 続いて主は、「良い麦と毒麦のたとえ」や「からし種とパン種のたとえ」を語られます。
 これらのたとえを通して示されることは…

本 論)
1.収穫の時を待つ
 「種蒔きのたとえ」では、みことばが「種」、人間の心が「地」にたとえられていました。
 「良い麦と毒麦のたとえ」では、人間が「麦や毒麦」にたとえられています。
 良い麦の種を蒔く「ある人」(主人)は、「人の子」(主イエス)を示しています。(24)
 人々が眠っている間に、毒麦の種を蒔いた「敵」がいました。(25-28ab)
 主イエスはその敵は「悪魔である」と言われます。(39)
 しもべたちはすぐに毒麦を抜こうとします。(28cd)
 しかし、主人はそうさせませんでした。今抜けば十分に実っていない良い麦も抜いてしまうからです。
 主人は良い麦を守ろうとしたのです。
 主人は収穫の時を待つように指示します。(29-30)
 収穫の時なら全部抜いて完全にえり分けることができるからです。(当時、農夫たちは毒麦が入らないように、まず麦だけを刈り入れた。毒麦は後で集められた。)
 福音書記者マタイは主イエスがたとえで語られたことは旧約の預言の成就であることを詩篇78篇2節(p1013)を引用して記します。(34-35)
 「畑は世界で、…」(38)と主が解き明かされるように、畑は世界全体や教会を象徴しています。
 「良い種」は「御国の子ら」のことだと言われます。 (38)
 「御国の子ら」は主イエスを信じ、御国に招き入れられた人たちです。
 「毒麦」は「悪い者の子ら」のことだと言われます。彼らは天の御国に招かれているのに、それを拒んだ者たちです。   
 「収穫」の時は「世の終わり」の時です。(39-40) それは主イエスが再び地上に来られ、正しいさばきをなさる再臨の時です。(41-43)

2. 天の御国は拡大する
 主イエスは「別のたとえ」(からし種のたとえ)を語られます。(31-32)
 「どんな種よりも小さい」ものである「からし種」が、3~4mもあるからしの木に成長します。
 これは主イエスが蒔かれる種(みことば)によって、天の御国が世界中に拡大していくことを示しています。 
 続いて、主は「パン種のたとえ」を語られます。(33)
 「パン種」はイースト(酵母yeast)でパン粉の中にあり、外からはその存在は見えませんが、やがてパン全体に浸透して、それを柔らかくし、ふくらませる力を持ちます。(「三サトン」は約39リットルで、当時、パン種を入れて粉をこねる時に用いた分量。)
 からし種やパン種の共通点は、初めは人の目にもとまらないほど小さなものですが、内に驚くべき生命力を宿していることです。これらはみことばの力を象徴しています。

結 論) 教会は天の御国のひな型です。
 この「良い麦と毒麦のたとえ」は教会の姿も示しています。 
「毒麦」は「異なる福音」(異端の教え)に惑わされてしまう人たちのことだと受け止めることもできます。
 あるいは不信仰に陥ってしまう人を指していると受け止めることもできます。
 しかし、このたとえは「自分は、あるいはあの人はもしかしたら毒麦では…」と自分を卑下したり、他者をさばくために語られたのではありません。
 ここで主人にたとえられている父なる神様、そして御子イエス様は、麦の一本一本(私たち一人ひとり)を大切に思われ、慈しまれるお方です。(29-30a)
 そして、毒麦(罪人)を良い麦(「御国の子ら」)に変えてくださるお方です。
 主はすべてをご存じです。(箴言15章3節p1111)
 さばきのことも主におゆだねしましょう。
 私たちは自分のことや、あの人がどうとかと思い煩わず、ただ神様のあわれみにより頼み、天の御国を求め、いのちのみことばに生かされて歩みましょう。

(参考)
新聖歌146 「昔主イエスの」
 作詞:由木 康(ゆうき こう)(1896-1985)