ルカの福音書19章1~10節

復活節 第5主日礼拝        2025.5.18
 聖書箇所: ルカの福音書19章1-10節
 説 教 題: 「今日、救いがこの家に」
 説 教 者:     辻林 和己師

イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」     ルカの福音書19章9-10節 (p.157)

序 論)主イエスは弟子たちと一緒にエリコの町に入られます。エリコは世界最古の城郭都市でエルサレムの近くにありました。(1)
 門のすぐそばには収税所がありました。ザアカイ(「きよい人」という意味の名)は取税人のかしら(2)で、金持ちでした。主イエスがザアカイに語られ、なされたことは…

本 論)
1.ザアカイの名を呼ばれた
 当時のユダヤ人はローマ帝国の手先となって税金を取り立てる取税人を嫌い、「罪人」と呼んでいました。
 ザアカイは主イエスのうわさを聞き、強い好奇心をもって主にお会いしたいと願っていました。(3)
 いちじく桑の木に登り、主イエスがどんな方かを見ようとするザアカイに対して、主イエスの方から、「ザアカイ、急いで降りてきなさい」と名前を呼んで語りかけて下さいました。(5)
 ザアカイはこの時まで、主にお出会いしたことがなかったのに、主は彼のすべてをご存じでした。
 主イエスは、私たちのこともすべて知っていてくださり、私たちに対して配慮し、御導きを与えてくださいます。
 主の言われた「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」は、唐突なことばに思えます。(5)
 それは、木に登ってまでも主イエスにお会いしたい、とキリストを求めるザアカイの願いを知られた、主の応答でした。  (原文では「あなたの家に泊まらねばならない」という非常に強い断定的な意味を表す言葉が用いられている。ザアカイの救いのためにそうせねばならない、という神様のご意志、ご計画があるという意味が込められた表現。)
 主イエスは、切実に主を求める者の思いをも知っていてくださるお方です。
 彼は、莫大な富を手にしていましたが、人々からは軽蔑され、罪人呼ばわりされ、心の中には満たされない思いがあったに違いありません。 

2. 悔い改めに導かれた
 ザアカイは主イエスを大喜びで自分の家に迎え入れました。(6-7)
 主との交わりを通して彼は全く変えられました。自分の財産の半分を貧民に施すと誓ったのです。(8)
「主よ、…」とのイエス様への呼びかけは、彼の信仰の表れでした。
 さらに不正な取り立てについては四倍にして償うと言いました。
 主イエスとお出会いしたことによって彼は本当に変えられました。
 彼は全く新しい人間に造り変えられ、新しい生き方をする者となったのです。主イエスに出会っていただいた恵みは、その後も彼を支え続けたことでしょう。
 ザアカイの悔い改めと具体的な行いの申し出を聞かれた主イエスは、「今日、救いがこの家に来ました。…」(9)と言われました。 「この家に…」は、一人の人の救いが家族や周囲の人々に祝福をもたらすことを示しています。
 イエス様のご愛と恵みに応答し、悔い改めの心を具体的な行いで表すこと、実行することを「悔い改めの実を結ぶ」と言います。 (ルカの福音書3章8節p.113 )
 真の神様を信じ、従うユダヤ人は「アブラハムの子(子孫)」(9)ですが、主イエスを信じ、従う者も、神様がアブラハムを通して与えようとしておられる祝福を受けることができるのです。 (ガラテヤ人への手紙3章6-9節p.377)

結 論) 「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」(10)とのみことばは、主イエスが地上に来られ、果たそうとしておられた使命の中心を表しています。
 ザアカイは人から見れば財や地位や才能等、多くのものを持っていました。しかし、彼も神様から見れば空虚を感じ、孤独の中にいた「失われた者」だったのです。それは、神様から離れた状態にいることを意味しています。
 心の中で救い主(キリスト)を求めていたザアカイを尋ね出し、救ってくださった主イエスは、今も、「失われた」すべての人々を捜し求めておられます。
 ここでの「いちじく桑の木に登る」(4)ことは、さらに主イエスを求めることを示しています。私たちも、聖書のみことばに触れ、祈りつつさらに主を求めましょう。
 まだ、イエス様を知らない人たちが一人でも多く、イエス様を知り、お出会いすることができるように、まず私たちがキリストの御前に出て、主との交わりを深め、主と教会に仕えさせていただき、それぞれができる奉仕に励んでまいりましょう。