ピレモンへの手紙1節~25節

教区講壇交換礼拝

 聖書箇所: ピレモンへの手紙1-25節
 説 教 題: 「神様の愛によって」
 説 教 者: 井上 義実師

そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。ピレモンへの手紙12節(p435)

序論
 パウロの手紙は新約聖書に13通残されている。最初がローマ人への手紙で13通目がピレモンへの手紙になる。若い頃は他のパウロの手紙に比べると、パウロの個人的な手紙であるピレモンへの手紙は余り気にかけなかった。何時からか、この手紙がパウロの手紙の最後に収められていることを、しみじみと感じるようになった。神の愛が理念ではなく実践である、神の愛に生きることは何かが具体的に記されている。神学や教理を越えた非常に大切な手紙であることを覚える。

本論
Ⅰ.ピレモンへの手紙の背景
 この手紙を書いた時のパウロは念願のローマに到着し(使徒28章参照)、番兵は付けられ自由はなかったが家で暮らせた時期のことである。手紙の宛先のピレモンは、コロサイ教会の創立者となった有力な信徒であり、パウロとは深いつながりがあった。オネシモという奴隷が出てくるが、ピレモンの奴隷であった。しかし、オネシモに何があったのか主人ピレモンを裏切り逃亡した。流れついた先が大都会のローマであった。この時ローマで、囚われの身であったパウロと出会う。パウロは逃亡奴隷のオネシモがコロサイのピレモンの元にいたことを知ってどれ程驚いただろうか。オネシモはパウロから神様の福音を聞き、イエス様を救い主と信じる者となった。事実は小説よりも奇なりと言うが、映画のような、小説のような話が実際に起こった。ピレモンの元を逃げ出した奴隷オネシモを救うという神様の大きな愛が働いていた。私たちにも神様の無限の愛は注がれている。

Ⅱ.ピレモンへの手紙の内容
 救いに与ったオネシモは主に仕えるようにパウロに仕えた。囚われの身のパウロにとって本当に大きな喜びであっただろう。「獄中で生んだわが子オネシモ」(10節)と呼び、「彼は私の心そのものです。」(12節)と言う。パウロは自分の元にオネシモを留めておきたかったが、彼がピレモンの元に帰ることが必要だと考えるようになった。オネシモをピレモンの元に送り返すための執り成しの手紙が本書である。パウロはピレモンの信仰者としての神様にある愛に訴えている「愛のゆえに懇願します。」(9節)。パウロはピレモンが神の愛を実践していることを聞いていて同じ愛を表してほしいと願った「すべての聖徒たちに向けている、愛と信頼について聞いている」(5節)、「あなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。」(7節)。「私を迎えるようにオネシモを迎えてください。」(17節)と依頼している。
 ピレモンはオネシモの裏切りを怒っていることだろう。主人は逃亡奴隷をどのように扱うこともできたが、パウロはピレモンの持つ神様の愛にかけていた。ピレモンがこのことを理解し、受け止めることを期待していた。神様は私たちにも愛の応答を期待されている。

Ⅲ.ピレモンへの手紙の希望
 パウロは逃亡奴隷オネシモが回心して救いに与ったことでピレモンに手紙を書いている。オネシモが行ったことは明らかな罪であるが、オネシモはイエス様の救いに与った。通ってきた過程は良くなかったが、結果的には神様によって、悪いことが良いことに逆転した。
 このことによって神様の愛が表され、神様の恵みが周囲に満ちて行った。目に見えることが悪であっても私たちは諦めなくてよい。そこから良い実を結ばせてくださるのは神様の働きである。パウロとピレモン、パウロとコロサイ教会のつながりもさらに大きく豊かにされていったことだろう。オネシモは主人ピレモンとコロサイ教会のために全力で仕えたことは間違いない。愛の実が結ばれていったのである。私たちも神様の愛の実を結んでいこう。

 結論:主から自由をいただいた者として主に仕える者となる
 ピレモン、オネシモに起こったことは聖書の時代のドラマのような話である。神様の愛の結実がなされていった。聖書は私たちが罪を行っているなら、罪の奴隷であるという(ヨハネ8:34)。私たちは人の奴隷になることはないが、罪に支配され欲望の虜にされることは起こり得る。悪魔も、この世のものも私たちを捕えようとしている。私たちはイエス様にある魂の自由をいただいている「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)。

私たちを罪と滅びから解き放ってくださった主に仕え、隣人に仕えていこう「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」(ガラテヤ5:13)