それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。 ルカ24章50-53節 (p.174)
序 論)エマオへ向かう途中、復活された主イエスにお出会いしたクレオパともう一人の弟子は、そのことを他の弟子たちに知らせるためにエルサレムへ急ぎました。(33)
十一弟子と仲間たちに対して主が成されたことは…
1.栄光のからだを持っておられることを示された
家の中にいた弟子たちに復活された主イエスは御姿を現されました。彼らは恐れ、疑いました(33b-37)。
主は十字架で受けられた御傷の残る手や足を見せられ、「… わたしにさわって、よく見なさい。…」(38-39)と言われ、ご自身の復活が霊ではなく、肉体の復活であることを示されました。(40) しかし、それは、地上の人間の体ではなく、「栄光のからだ」でした。
主イエスが焼いた魚を食べられた(41-43)のは、体の復活あることを示すためであり、かつてのご自身との食卓の交わりを思い起こさせ、彼らの心の目を開かせるためでした。こうして、主は弟子たちにご自身の復活が確かであることを示されました。
弟子たちも最初は主イエスが「霊」だと思いましたが、そうではありませんでした。主イエスは栄光のからだで復活されたのです。
「しかし、今や、キリストは、眠っている者の初穂として死者の中からよみがえられました。」 (コリント人への手紙 第一 15章20節 p.350)
この後、主イエスは天の父なる神様のもとに帰られますが、もう一度、この地上に来て下さいます。そのとき、主は、私たちもよみがえらせて下さり、栄光のからだを与えて下さるのです。
2.キリストの証人として
続いて主イエスは、エマオ途上でクレオパたちに聖書を説き明かされたように、弟子たちに聖書全体(旧約聖書全 体)が主(キリスト)を証ししていることを語られました。 (26-27、44-46)(「モーセの律法と預言書たちの書と詩篇」(44)は、旧約聖書全体を意味している。) (詩篇22篇27節p953、イザヤ書49章6節p1251等)
「罪のゆるしを得させる悔い改め」(47)、とは主イエスの十字架と復活の福音を人々が聞き、悔い改めて神様に立ち返り、主を信じ、罪の赦しを得ることです。
それがエルサレムから始まり、その後、福音が全世界に宣べ伝えられるのです(47)。
弟子たちは、イエス・キリストの言行の証人、主の十字架と復活の証人として歩み始めます(48)。
「わたしの父が約束されたもの」(49)は「聖霊」であり、「いと高き所から」の力は聖霊の力です。父なる神様が、聖霊を与えて下さるまで、あなたがたは都(エルサレム)にとどまっていなさい、と主イエスは弟子たちに言われました。(49)
この言葉通り、この後、ペンテコステのとき、祈り続け待ち望んだ弟子たちに聖霊が与えられます。(使徒の働き2章1-4節p.233)
今、イエス様を信じる人には誰でも聖霊が与えられ、聖霊によって、イエス様が私たちの内に生きて下さるのです。
結 論) この後、ベタニアに行かれた主イエスは両手をあげて弟子たちを祝福されながら、彼らを離れ、天に昇って行かれました。(50-51)
彼らは、イエス様を礼拝しました。そして、大いに喜んでエルサレムに戻ります。そして「宮」(神殿)で神様を賛美しました。(52-53)
弟子たちは、主イエスこそ天の父なる神様がどのようなお方であるかを示された方であり、復活して共に歩んで下さるお方であることを知りました。それゆえに彼らは大きな喜びに満たされました。
現在も同じです。あなたのためにも主イエスは十字架にかかり死なれた後、復活されたことを知るとき、悲しみは喜びに、失望は希望に変えられます。
復活された主イエスは聖霊によって私たちと共に今日も歩んで下さっているのです。私たちも主に心を向け、イエス様を神の御子、救い主と信じ、主と共に歩み続けましょう。
(参考)
『私の聖書物語』(椎名麟三)(しいな りんぞう)
(1911-1973)(日本の小説家)