ルカの福音書23章32~38節

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。      ルカの福音書23章34節 (p.170)

序 論) 主イエスは、総督ピラトによって刑が決められ、ローマ兵たちに引き渡されました。(24-25)
 主は十字架を負われ、ゴルゴタへの道を歩まれます。(26-31)
 そこに着かれた主は十字架にかかられます。(32-33)
 主イエスのみことばと十字架の周りにいた人たちの言動を通して示されることは…

1.いのちを捨てられた主イエス
 主イエスは、十字架の上で祈られました。(34)   (「十字架上の七言」の第一言)
 「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイの福音書5章44節p9)と語ってこられた主は、ここでもそのご愛を示されたのです。
 この祈りは、大祭司としてのとりなしの祈りでもありました。
 十字架の近くにいた兵士たちは、くじ引きをして主の着物を分け合いました。(34)
 このように死刑囚の衣服を分け合うのは、当時の慣習になっていました。同時にこれは、詩篇22篇18節の言葉の成就でもありました。(p953)
 ユダヤ議会の議員たちは主イエスをあざけりました。(35)神様によりキリスト(救い主)として「選ばれた者」であるなら、まず自分自身を救うことができるはずである、という考え出た彼らの言葉でした。
 兵士たちは「酸いぶどう酒」を主イエスの御前に差し出します。(36) これは、本来は囚人の苦痛を和らげるためのものでしたが、彼らは嘲(あざけ)りの道具として用いました。(37)
 しかし、主イエスはご自身の御力を自分のためには使うことをなさいませんでした。
 主はすべての人を罪から救うために、ご自分のいのちを捨てられたのです。                  

 2. 十字架による救い
 主イエスの十字架に「これはユダヤ人の王」という札がつけられました。これは、刑の様子を見ている通行人が読めるようにと書かれたものでした。(38)
 これは総督ピラトが、ユダヤの宗教指導者たちに対する腹いせのために書かせたものでした。(ヨハネの福音書19章19-22節p225)
 ピラトは、主イエスに何の罪もないことを知りながら、主を十字架につけることを許しました。
 ユダヤの宗教指導者たちは、主を十字架につけるため、ありもしない罪をきせました。彼らの心の内には主に対するねたみの思いがあったのです。 (マタイの福音書27章18節p60)  (マルコの福音書15章10節p102)
 主イエスがエルサレムに入城されたときは喜んで歓迎した民衆でしたが、判決のときになると彼らは祭司たちに扇動され、主を十字架につけるようにピラトに求めました。
 主イエスの弟子たちは、主が捕らえられるとき、逃げ出してしまいました。
 彼らは皆、神様の御思いが何かを考えようとせず、主イエスが本当はどのようなお方であるかを知りませんでした。
 このように主イエスが受けられた御苦しみと十字架に、彼らの罪があらわれています。
 主イエスの祈りの中の「彼ら」(34)は、兵士や宗教指導者たちだけでなく、主イエスの十字架に関わったすべての人たちが含まれていました。

結 論)主イエスの十字架刑に直接、関わった人たち、十字架の周りにいた人たちの姿は私たちの罪のあらわれでもあります。
 主が十字架にかかられたのは、すべての人が受けるべき罪の罰をご自分が身代わりに負われ、人を罪から救うためでした。それ故、死に至るまで、十字架上で苦しみを受けられたのです。
 十字架にかかられた主イエスこそ、神のキリストであり、真の王です。
 主イエスの十字架上での赦しの祈りは、すべての人の、そして私たちのための祈りでもありました。
 主は今も、父なる神様の御前で私たち一人ひとりのためにとりなし祈っておられます。 (ローマ人への手紙8章34節p311)
 私たちも周りの人たちのために愛と赦しの思いをもってとりなし祈りましょう。(エペソ人への手紙4章32節p389)
 「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」(同上 口語訳)
 一人でも多くの人が主イエスを信じて救いの恵みにあずかることができますようにと祈りつつ、主を仰ぎ、レント(四旬節)のときを過ごしましょう。