コリント人への手紙第一 12章12~27節

一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。 Ⅰコリント12章26-27節(p345)

序 論)コリント人への手紙 第一12章から14章までは、「聖霊の賜物」について述べられています。12章12節以降の箇所で教会の中での賜物の多様性と一致をからだのたとえで教えています。パウロが伝えようとしたことは…

本 論)
1.からだのたとえ
 パウロは「私たちは一つのキリストのからだへと結び合わされ、その部分となっている」と語ります。
 そしてそのことがどのように実現したのかを13節で語ります。「…バプテスマを受けて、一つのからだとなりました」を直訳すると「みな一つのからだへと浸された」となります。聖霊によって私たちは、一つのからだ、キリストのからだへと浸され、その一部となるのです。
 私たちが一つであるのは、私たちの思いや意識が一つであるからではなくて、洗礼を受けた私たちをキリストの体へと浸した聖霊が一つであるからです。「そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」(13)の「飲む」は、聖霊が私たちの外側で働いて下さるのみではなく、私たちの内に宿って下さり、内側から私たちを造り変えて下さることを示しています。
 14-20節でキリストのからだの一部としての私たちの関係がどうあるべきかを語ります。
 みんなが同じである必要はなく、私たちはそれぞれに賜物、能力、役目が与えられています。
 それは、神様が、様々な違った者たちによって、一つのキリストのからだを造り上げようとしておられるからです。自分に与えられている賜物を人のそれと比べて優劣を競い合うことはなく、神様から与えられた自分の賜物を精一杯用いていけばよいのです。

 2.ともに苦しみ、ともに喜ぶ
 私たちは、優れたもの、能力のあるもの、美しいものを大事にします。そういうものによって事をなしていこうとするし、自分自身もそういうものになろうとする傾向があります。
 しかし、神様は、むしろ弱い者、見劣りのするものをこそ慈しみ、大事になさるのです。(21-25)
 私たちがこうして神様の救いへと招かれ、教会に結び合わされるのは、神様が、弱く、罪に捕らえられ、いろいろな問題に苦しみ悩んでいる私たちを、それゆえにこそかえって深く慈しんで下さり、独り子イエス・キリストの十字架の死によって救って下さったからです。
 キリストのからだなる教会はこの恵みによって形造られていくのです。
 それゆえに私たちは、同じからだに連なる他の部分を、特に自分よりも弱い、劣っていると思われる部分をむしろ大事にし、自分の賜物によって補い支え合うことが願われています。
 「各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。」(25)はそのような支え合い、補い合いのことです。
 そうすることによって、体に分裂が起こらず、一つの体として全体が生かされていくのです。
 私たちは、身体の中のほんの一部が痛んだだけで、それで体全体の具合が悪くなり、元気がなくなってしまいます。
 逆に、喜びも全体のものです。体はそれだけ一体性があります。この事実は、キリストのからだである教会においても同じだとパウロは言っています。洗礼を受け、キリストのからだに浸され、その部分とされた私たちの間にもそのような一体性があります。
 私たちにとって大事なことは、キリストのからだの部分としての自覚、姿勢を持って、他の部分である兄弟姉妹と共に歩むことです。
 そのように歩む所にこそ、26節の「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」のみことばが現実となるのです。

結論)私たちは、主イエスによって、罪から贖われ、義と認められ、きよくされています。  (コリント人への手紙 第一 1章30節p327)
 「教会のかしら」であられるキリストに各々がさらにつながらせていただきましょう。  (コロサイ人への手紙1章18節p402) 
 神様から見てかけがえのない存在である部分(一人ひとり)の集まりがキリストのからだ(教会)です。(27)
 これらからも一人ひとりが神様から与えてられている賜物を生かし、主と教会に仕え、教会の活動や交わりをさらに豊かにしてまいりましょう。