「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。…」 ルカの福音書15章4節 (p.148)
序 論)主イエスは「取税人や罪人たち」と一緒に食事をされ、話されました。
ある時、彼らが主のお話しを聞こうと近くにやって来ました。(1)
その様子を見ていたパリサイ人たちや律法学者たちは、主イエスを非難しました。(2)
彼らが言う「罪人たち」は、職業上の理由等で律法を守れない人のことを意味しています。
主は三つのたとえを話され、彼らの問いに答えられます。 (3-32)
最初のたとえ(4-7)を通して示されることは…
本 論)
1.捜し求められる神
聖書では、神様とイスラエルを羊飼いと羊にたとえて語られている箇所があります。(詩篇23篇1-2節p954等)
「羊を百匹持っている羊飼い」は、雇われた牧者(羊飼い)ではなく、「自分の羊たち」を飼う羊飼いです。(4)
この羊飼いは「99匹」を「野に残して」(他の牧者に託したと考えられる)、いなくなった「1匹」を捜しに行きます。(4)
ヨハネの福音書では、主イエスはご自分のことを羊飼いにたとえて語っておられます。(ヨハネの福音書10章11節p202)
この箇所のたとえでも、主はご自身を羊飼いにたとえておられます。
「いなくなった羊」は、神様から離れてしまい、神様との交わりを失ってしまった人の姿を示しています。
直接的には「取税人たちや罪人たち」(1)を指して話されています。
「迷える羊」(いなくなった羊)を見つけるまで捜し求める羊飼いの姿は「わたしは良い牧者です。…」と言われる主イエスの御姿そのままです。
2.天における大きな喜び
羊飼いは、羊の名を呼び、ただ羊の鳴き声を頼りに「見つけるまで」捜し続けます。(4)
迷える羊は、もし見つけられなければ、命を失ってしまいます。
捜し歩いた羊飼いは、ついに羊を見つけることができました。
そして、大喜びで両肩に担いで、家に帰りました。(5)(羊は衰弱していたことでしょう。)
主イエスは取税人たちを「見出された羊たち」にたとえて語られ、彼らがご自身のみもとに来ていることを喜んでおられることをパリサイ人たちに示されたのです。
主イエスは、神様の御前から離れてしまった人を「罪人」(7)と呼んでおられます。
その人たちが「悔い改める」(神の御前に立ち帰る)ことを父なる神様は願っておられ、そのことは「大きな喜び」なのです。
私たちもかつては「いなくなった羊」でしたが、主イエスによって見出された者たちなのです。
結 論) 私たちは、主イエスの十字架に現わされた父なる神様のご愛を知り、神様のみもとに立ち帰ることができました。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 (ヨハネの手紙 第一 4章10節p483)
今も、父なる神様は、熱愛をもって、御子イエス様を通し、まだ神様を知らない人たちを捜し求めておられます。
さらに多くの人たちが主イエスの救いの恵みにあずかることが出来るよう祈りつつ、主と教会に共に仕えてまいりましょう。
(参考)
『三四郎』(夏目漱石(1867-1916)作)の中で、登場人物が「ストレイ・シープ(stray sheep)」(「迷える羊」)と英語で言う場面がある。ルカ15章6節「いなくなった羊」の英訳はmy lost sheep(私のいなくなった(失われた)羊)。