マタイの福音書12章9~21節

「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
彼は異邦人にさばきを告げる。…」    マタイの福音書12章18節 (p.23)

序 論)主イエスはパリサイ人たちと安息日を巡ってやり取りされ(1-7)、ご自身が「安息日の主」であることを告げられました。(8)
 その後、主は彼らの会堂に行かれます。(9)そこでの主の言行と続いて記されていることを通して示されることは…

本 論)
1.安息日にも良い行いをする
 主イエスを陥れるためにパリサイ人は主に問いかけます。(10)
 律法学者やパリサイ人たちは、人や動物が命の危険にさらされているなら安息日でも助けてもよいと教えていました。
 しかし、自分たちの目の前にいる「片手の萎えた人」(10)はそれに該当しない、と思っていました。
 主イエスは羊が安息日に穴に落ちた場合どうするのか、と逆に彼らに聞き返されました。(11)
 当時、安息日が明けるまで助けるのを待つというユダヤ人もいました。けれども、助けてもよいという考えが一般的でした。
 それならば、「羊よりはるかに価値のある」人間を助けてもよいことになる、と主イエスは言われます。(12a)
 こうして、主イエスは、普通よいとみなされていることを安息日に行うことは律法にかなっていることを彼らに伝えられました。(12b)
 そして、片手が不自由になっていたこの人を癒されました。(13)
 主イエスは安息日を「…してはならない日」ではなく、「善を行う日」とされたのです。
 反論出来なかったパリサイ人たちは、主イエスを亡き者にしようと相談し始めました。(14)  

2.「主のしもべ」であられるイエス様
 パリサイ人たちの殺意を知られた主イエスはそこを立ち去られました。(15a)
 そのとき、ご自身の後を追って来た病人たちを癒されました。(15b)
 主はご自身のことを人々に知らせないように命じられました。(16)
 このような、主の御姿に、福音書記者マタイは、預言者イザヤのことばの成就を見ました。(17-21)(イザヤ書42章1-4節p1235)
 イエス様は「主のしもべ」として歩まれました。(18)「わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者」(18)は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき、天からの御声を示しています。
 「わたしは彼の上にわたしの霊を授け」(18)は主イエスが受洗されたとき、聖霊が降ったことを示しています。(マタイの福音書3章16-17節p4)
 主イエスは柔和なしもべでもあられます。パリサイ人たちの殺意に対抗して争ったり、ご自分のなされた癒しのみわざを宣伝するようなこともなさいません。(19)
 葦(あし)は湿地にたくさん生えていますから「傷んだ葦」(20)は折られて捨てられてしまいます。
  「くすぶる灯心」も煙いだけで役に立たないから消されてしまいます。(20)
 しかし、それらにたとえられるような弱い、無力な者であっても、主イエスは見捨てられることなく、忍耐をもって支えてくださいます。

結 論)イザヤの預言のことばは福音がやがて異邦人にも伝えられることを預言しています。(18d、21)
 私たちは、私たちの罪のために十字架で死なれ、復活された主イエスに望みを置いて歩むのです。
 主を信じ、従う者には聖霊によって神の愛が注ぎ続けられています。(ローマ人への手紙4章25節、5章5節p304)
 主の御手に支えられ、主のしもべの御姿にならう者とさせていただきましょう。 

(参考)
 「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦に過ぎない。
 しかし、それは考える葦である。」
 (『パンセ』ブレーズ・パスカル(1623-1662)
           フランスの神学者、数学者、科学者)
     「火  アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。
       哲学者や識者の神にあらず。  
      確実、確実、感情,喜び、平安。
      イエス・キリストの神。
      わたしの神 すなわちあなたたちの神。
      あなたの神は、わたしの神です。…」
               (『パスカルの覚書』(1654年)