マタイの福音書12章1~8節

「…『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」   マタイの福音書12章7-8節 (p.22)

序 論)主イエスは人々を招かれ、休息と平安を与えられることを約束されました。(11章28-30節)
 そのころ、安息日に主は弟子たちと一緒に麦畑を通られました。(1a)
 その時に起こった出来事と主のみことばを通して示されることは…

本 論)
1.安息日を巡るやりとり
 主イエスの弟子たちは、空腹だったので穂を摘んで食べました。(1b)
 それ見ていたパリサイ人たちが主に告げました。(2)
 彼らが弟子たちを見とがめ、責めたのは盗みの罪としてでは、ありませんでした。
 貧しい人たちが、このように穂を摘むことは許されていました。(申命記23章25節p356)
 しかし、ここでは穂を摘むことが、当時、安息日にしてはならないと定められていた労働のうちの「収穫」に当たるとしたのです。
 これに対し、主イエスはまず、かつてサウル王に追われたダビデの行った事例を挙げられました。(3-4)(サムエル記 第一 21章1-6節p519)
 空腹だったダビデとその供の者たちは安息日に祭司アヒメレクから、祭司にだけ食べることを許されていた供えのパンをもらって食べました。それによってダビデたちは生き延びることができました。
 主イエスは、パリサイ人たちに、追い詰められている状態の人間の命を守ることが安息日の規定に優先することを示そうとされたのです。  

2.神様のあわれみ
 次に、主イエスは一切の労働が禁じられている安息日であっても、祭司だけは例外が認められていた事実を挙げられます。(民数記28章9-10節p293)
 祭司たちはいけにえの小羊を屠ったり、穀物のささげ物をささげる必要がありました。
 これは安息日の規定に反しますが、罪にはなりませんでした。神様を礼拝すること、礼拝に備えることが安息日律法に優先したのです。
 続いて主イエスは「…ここに宮よりも大いなるものがあります」と言われました。(6)
 この箇所は口語訳聖書では、「宮よりも大いなる者がここにいる」と訳されています。「大いなる者」は主イエスご自身のことを指して言われています。
 主イエスとそのお働きには宮(神殿)にはるかに勝る神の臨在があります。それゆえに主と共にある歩みにおいては、律法を形式的に守る必要はないのです。
 「宮よりも大いなるもの」(6)は、到来した神の国、あるいは神様のあわれみを指して言われているという解釈もあります。
 それらも主イエスによってもたらされ、示されたものです。
 続いて主イエスはホセア書のことばを引用し、パリサイ人たちが見落としている大切なことを指摘されました。(7)  (ホセア書6章6節p1540)
 神様が願われるのは、宮でささげられるいけにえではなく、神様が真実の愛のお方、あわれみ深いお方であるように、人も神を愛し、隣人を愛して歩むことなのです。
 ここでの「咎のない者たち」(7)は、主イエスに従う弟子たちを指して言われています。
 主イエスは「人の子」(救い主の称号、ここでは主ご自身)が「安息日の主です」(8)と仰られました。
 主イエスが安息日の正しい意味を教えてくださり、私たちは安息日(主の日)の中心である主を礼拝する者とされるのです。
 主イエスこそ私たちに真の安息と平安を与えてくださるお方です。

結 論)主イエスは十字架で死なれ、「週の初めの日」に復活されました。
 主イエスを信じ、従う者はこの日(日曜日)を「主の日」として毎週、礼拝をささげるようになりました。
 キリスト者にとっては日曜日が「安息日」になったのです。
 私たちは主イエスを通して、神様の真実な愛、あわれみを知りました。
 今、聖霊によって神の愛は私たちのうちに注ぎ続けられています。(ローマ人への手紙5章5節p304)  
 主の日の礼拝を共にささげ、主イエスのもとで真の安息と平安をいただき、神を愛し、隣人を愛する歩みを続けてまいりましょう。