あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。…このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。 マタイの福音書5章14、16節 (p.7)
序 論)主イエスは山に登られ、群衆や弟子たちに向かって話されました。(1-2) 「八福の教え」(3-12)を語られた後、主はさらに語られます。
主のみことばを通して示されることは…
本 論)
1.私たちは「地の塩」として役目が与えられている
主イエスは弟子たちに「あなたがたは地の塩です」(13a)と言われました。
「(これから)地の塩になりなさい」ではなく、「(すでに)地の塩とされているのだ」と仰っています。
私たちは主イエスの恵みによって「地の塩」とされています。
塩には食べ物に味を付けることと、腐敗を防ぐという役目があります。
塩は、料理の味を引き立てます。
塩は自身を隠してこそ効力を発揮します。
キリスト者は、地の塩として、生活の中で周囲の人たちを生かすために自分を用い、人々の良い所を引き出していく役目が与えられています。
続いて、主イエスは「もし塩が塩気をなくしたら、…人々に踏みつけられるだけです。」(13b)と言われました。
キリスト者がこの世の悪に妥協してしまうならば腐敗を防ぐ塩気を失ってしまい、世の人々からも見捨てられてしまいます。
私たちは世の時流に流されることなく、不正に対処する知恵や過ちを指摘する勇気を主から与えていただきましょう。
このように主を信じ、従う者は自己を隠し、人々の間に浸透し、腐敗を防ぎ、味付けをする「地の塩」としての役目が与えられているのです。
2.主イエスによって「世の光」とされている
さらに主イエスは「あなたがたは世の光です。」(14a)と言われます。
この福音書を書いたマタイは、4章15-16節(p5)で旧約の預言者イザヤの言葉を引用し、この言葉が主イエスによって成就したことを告げています。
主こそ、この世の闇を照らす光としてこの地に来てくださったのです。
主イエスは「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」と語られました。(ヨハネの福音書8章12節p195)
主に最初に従ったペテロや他の弟子たちも様々な欠点や弱さを持った人たちでした。
しかし、主イエスからいのちの光をいただき、その光に照らされて歩む者とされました。
「山の上にある町」(14a)はエルサレムのことを指して言われています。夜には町の光が四方から見える高い位置にあります。
主に従う私たちも、主からの光をいただいて歩む者であり、主を証しする者としてそれぞれの所に置かれているのです。
当時、明かり(ランプ)を消すときは、升(ます)をかぶせて消していました。(15a)
明かりを升の下ではなく、燭台の上に置くように、どんな小さな光であっても、それは「家にいるすべての人を照らします。」(15bc)
私たちも小さな者であっても、主からの光をいただいて他の人を照らし、希望や喜びを指し示すことができるのです。(16a)
結 論)光とされた私たちの使命は、人々の注意を自分に引き付けることではありません。
それは、天の父なる神様がおられることを人々に明らかにし、人々がこのお方をあがめるようになることです。(16b)
主イエスによって罪から救われた私たちは、闇から光に移された者です。私たちは「光の子ども」として歩みます。 (エペソ人への手紙5章8節p390)
この新しい年、「いのちのことば」(聖書のみことば)を心に留め、主によって「地の塩、世の光」とされていることを覚えて歩み続けましょう。 (ピリピ人への手紙2章15-16節p396)
(参考) 『ジェーン・エア』(シャーロット・ブロンテ作
(1816-1855)英国の作家)