イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
…わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」 ヨハネ9章3-5節 (p.199)
序 論)主イエスはエルサレムの神殿におられた時、人々に「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」と言われました。(8章12節p195)
ある安息日に、主は生まれつき目が不自由で、物乞いをしている人に出会われます。(1)
主が語られたことと成されたみわざを通して示されることは…
本 論)
1.世の光として来られた主
この人に出会われる前、主イエスはユダヤ人たちから石打ちに遭いそうになられました。(8章59節)
それで、「身を隠して宮から出て行かれ」ました。
ご自身の命の危険がある状況の中でも、主イエスはこの目の不自由な人に心を向けられました。
主イエスが彼をご覧になっていることに気づいた弟子たちは、主にお尋ねします。(2)
彼らのことばには、当時のユダヤ社会の考え方が表れています。
彼らは、誰かが罪を犯した結果、この人の目が不自由なのだと考えていました。
しかし、主イエスは弟子たちの問いかけに、誰かの罪の結果ではない、とはっきりと答えられ、「… この人に神のわざが現れるためです。」と言われました。(3)
人は、なぜ、こうなったのかと過去に原因を求めますが、主イエスは、これから、この人を通して「神のわざ」を成そうとしておられました。
主イエスは、一見、不幸に思えるようなことを通して、彼が神の栄光を見ることができるようにされ、ご自身こそがまことの世の光であることを人々に示そうとされたのです。(4-5)
「わたしを遣わされた方」(4)は、御子イエス様を地上に送られた父なる神様です。
「昼のうちに」(4)、ご自身がこの地上におられる間に、という意味です。
「夜が来ます」(4)は、主イエスが弟子たちに、十字架にかかられることを暗示されることばです。
主がこのとき「わたしたちは…」と仰ったように弟子たちにも、主と共になすべきわざ(宣教の使命等)がありました。
2.神のみわざが現わされた
主イエスは、唾(つば)で泥を作ってこの男の人の目に塗られました。(6)
続いて「シロアムの池」に行って、目を洗うように命じられます。(7a)「シロアム」はヘブライ語で、「遣わされた者」という意味です。これは、主イエスが父なる神様から遣わされたお方であることを示すことばでした。
そして、彼も主イエスによって「遣わされた者」として、主の言われた通りに、池に向かいました。(7b)
主のことば通りに彼が目を洗うと、目が見えるようになりました。(7c)
彼は生まれて初めて、その目で神様の造られた世界を見ることができました。
長年、同じ場所で物乞いをしていたこの人を周囲の人たちはよく知っていました。それゆえ、彼の身に起こったことを不思議がり、また「…おまえの目はどのようにして開いたのか。」とその理由を知ろうとしました。(8-10)
彼は自分の身に起こった事実を簡潔に伝えました。(11)
彼はここでは「イエスという方」(11)と言っていますが、この後、主イエスへの見方は段々変えられていきます。
彼はイエス様のことを「預言者」(17)、次に「神から出た人」(33)と言い、最後には「主よ、信じます」と信仰を告白し、主を礼拝しました。(38)
彼のうえに神のみわざが現わされ、彼は肉眼が開かれただけでなく、霊の目も開かれたのです。
結 論)私たちを取り囲む現実は戦争や虚偽、混乱等、様々な深い闇を思わされるものです。
しかし、主イエスはこの闇の世を照らす光として、この地上に来てくださったのです。
主は、今も、私たちの行くべき道を照らし、導いてくださる光です。それと共に私たちも主に従う者として、それぞれのわざに励んでいくことを主は願っておられるのです。
私たちも主からの光、聖霊とみことばをいただいて「世の光」とされています。 (マタイの福音書5章14-16節p7)
この新しい年、主が私たちを通してなそうとしておられるみわざに期待し、主と共に歩んでまいりましょう。