「…マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」…「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。 マタイ1章21、23節 (p.2)
序 論)イエス様のご降誕をお祝いするクリスマスが近づいて来ました。キリストはギリシア語で「救い主」という意味ですが、主イエスはその教えや奇跡、あるいは十字架の死や復活によって救い主になられたのではなく、初めから救い主として地上にお生まれになった方です。ご降誕の前に御使いがヨセフに告げたことは…
本 論)
1.罪からの救い主
ヨセフは、婚約していたマリアが身重であると聞き、当時の律法の定めによってマリアが厳しい処罰を受けたり、さらし者になることを願わず、彼女を守るためにひそかに離縁しようと思いました(18-19)。 (ここでの「正しい人」(19)は「敬虔な人」、「人に対して思いやりがある人」という意味。)
しかし、主の使いはヨセフに、「その胎に宿っている子は聖霊によるのです」と告げました(20)。
「その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」とも告げました(21)。
「イエス」はヘブル語では「ヨシュア」で「主は救い」という意味です。救い主に対する当時の一般的な期待は、政治的な救い(ローマ帝国の支配からの解放)でしたが、主イエスがもたらされる救いは、「罪から」の救いでした。
ユダヤ民族は全世界の人々の代表として、最初に真の神様を知る民とされました。神様の御前ではユダヤ人だけでなく世界中のすべての人が、罪ある者です。主イエスはすべての人を罪から救うために来られました。
そして神様が預言者を通して語られた救いの計画の成就として救い主イエス様は誕生されました。(22)
2.私たちと共におられるお方
1章1~17節に記されている「イエス・キリストの系図」(1)の中にすでに人間の罪が示されています。それゆえに、普通の誕生では罪の中に初めから生まれているので、罪から救うことはできません。聖霊による誕生は、私たちを罪から救うために、罪のないお方が罪の世にお生まれになるための神がなされた特別な手段でした。
22節は神の御子が地上に来られたこと、神が人となられたという「このすべての出来事」は神様が預言者を通して語られたことが成就するためだと語っています。主イエスのご降誕によって「インマヌエル(神が私たちとともにおられる)」が実現することはイザヤ書7章14節(p.1178)の預言の成就でした。(23)
罪から救われた者は、神が共におられることを喜ぶ者へと変えられるのです。罪とは、神様から心が離れ、神を忘れ、自分の思いにのみ従う心そのものです。またその心のままに歩む生き方です。その結果、神様との関係が断ち切られてしまい、私たちは、過ちを犯し、人や自分自身の心を傷つけてしまうことを繰り返してしまう者となってしまいました。
そんな私たちを罪から救うためにお生まれになった主イエスは、やがて十字架にかかられ、全人類の罪を身代わりにご自身の身に背負って死なれました。主の十字架を通して、神の愛が現わされ、完全な罪の赦しが成されたのです。イエス様を神の御子、私の救い主と信じ、心に受け入れる者はだれでも、罪赦され、永遠のいのちに生かされるのです。
イエス様が私たちの罪を赦し、救われるのは、私たちを神様のもとに立ち返らせ、神様との交わりを回復し、神と共に歩むことができるようにするためです。
結 論) ヨセフは御使いの言葉を信じ、マリアを妻として迎え入れました。(24) それは、聖霊によって「おとめマリアより生まれ」た主イエスを迎え入れることでもありました。(使徒信条の中の言葉)
「ダビデの子ヨセフ」(20)が主イエスを迎え入れたことにより、主もダビデの直系の中に入れられ、救い主が「ダビデの子(子孫)」から誕生されるという旧約の預言が成就したのです。(サムエル記 第二7章11-16節p550)
「インマヌエル」は、マタイの福音書を貫く大きなテーマです。
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28章20節 p.64)
主イエスによってインマヌエルは実現しました。
私たちもときには、いろいろなことで悩み、心配し、「思い巡らす」ことがあります。そんなときも、父なる神様に祈り、インマヌエルなるお方、主イエスに打ち明け、交わりを深めてまいりましょう。神様は私たち一人ひとりにふさわしい導きと助けを与えてくださいます。
クリスマスを待ち望むことのとき、私たちもイエス様を心にお迎えし、神様の恵みへの感謝を新たにいたしましょう。