マタイの福音書11章20~30節

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 マタイの福音書11章28-29節 (p21)

序 論)主イエスは群衆に向かって洗礼者ヨハネについて語られた(7-19)後、主を受け入れなかった町のことや受け入れた人たちについて語られます。
 主のみことばを通して示されることは…

本論)
1、悔い改めない人々

 主イエスは、ご自身の多くの奇跡のみわざを見ながら、悔い改めなかったガリラヤの町々を責められます。(20)
 人々は、主イエスに癒しや悪霊からの解放を求めました。しかし、彼らはそれだけで満足し、主のみことばに耳を傾け悔い改めることをしませんでした。
 「ツロとシドン」(21、22)はフェニキアの植民都市で地中海に臨む天然の良港でした。それらはかつて経済的な繁栄と人々の傲慢さで知られていました。 (エゼキエル書28章2節p1463)
 その後、BC4世紀にアレクサンドロス大王によりツロとシドンは征服されてしまいます。
 「カペナウム」は主イエスが多くの「力あるわざ」を成された地でした。(23)
 「ソドム」(23)はその不道徳、特に性的な不品行の故にゴモラと共に硫黄の火で滅ぼされた町でした。(創世記18章16節~19章29節p26)
 救い主イエス様がガリラヤの町々に来られ、みわざを成され、直接、みことばを語られました。彼らは大きな恵みが与えられていました。(23)
 しかし、人々はそれに応答せず、主を受け入れなかったのです。
 人々への神のさばきはかつてのツロやシドン、ソドムの町々よりもさらに大きい、と主は言われます。(24)

2、主を受け入れる者
 主イエスは、父なる神様を賛美し、祈られます。(25)   
 「これらのこと」(天の御国の真理)が明らかにされたのは、自らを「知恵のある者や賢い者」として高ぶる者ではありませんでした。
 それは、幼子(おさなご)のように単純に心を開き、主に信頼する者に明らかにされました。(25-26)
 父なる神様は、御子イエス様を通してご自身がどのようなお方かを現わされました。(27)
 私たちは主イエスを通して父なる神様を知るのです。 (ヨハネの福音書14章8-9節p214)
 その後、主イエスは人々を招かれます。(28)
 ここで主が言われている「重荷」は第一義的には「律法主義の重荷」のことだと考えられています。
 当時、ユダヤ社会では律法の根本である隣人愛が忘れられていました。
 パリサイ人は律法に多くの規定を付け加え、律法が人をさばく手段になっていました。
 また守れないことで自分を責め、苦しんでいる多くの人たちがいました。
 そのような重荷を負って苦しんでいる人たちに主イエスは呼びかけられたのです。

結 論) 現在の私たちの「重荷」は何でしょう。心身の苦しみ、生活上の苦しみや悩み等、自分が重荷と感じること、すべてのことだと受け止めることができます。
 それらの重荷を自分だけで背負うのではなく、主イエスのみもとに行き、そこで降ろさせていただきましょう。
 では、どうしたら主イエスのみもとに行けるのでしょう。
 十字架で死なれ、復活された主イエスは、今、聖霊によって私たちと共におられます。
 ですから、聖書を通して、主のみことばを聞き、主に呼びかけ、祈るとき、私たちはすでに主のみもとにいるのです。
 今、置かれている所で、主に自分の重荷を正直に打ち明け、祈りましょう。
 重荷を降ろしてゆっくり休んだら、主イエスと共に新たに立ち上がりましょう。
 主が与えてくださる「くびきは負いやすく」、「荷は軽い」からです。(30)
 「荷」はそれぞれに与えられた使命や課題、「くびき」は主イエスが私たちと共に荷を負われ、歩んでくださることを象徴しています。
 「わたしから学びなさい」(29)の「学ぶ」は「その生き方に学ぶ」という意味で、キリストに従う、師である主イエスにならうことです。
 「学ぶ」の原語の名詞形には「弟子」という意味もあります。
 主イエスから学び続け、主と共に歩み続けましょう。