マタイの福音書11章1~10節

さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じてイエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」マタイの福音書11章2-3節 (p20)

序 論)
主イエスは十二弟子たちを各地に遣わされる前に、彼らに必要なことを教えられました。(10章)
 その後、主は宣教のためにそこを立ち去られます。(1)
 あるとき、バプテスマのヨハネの弟子たちが主イエスを 訪ねて来ました。
 彼らの問いと主が語られたみことばを通して示されることは…

本 論)
1、バプテスマのヨハネの問い
 
「牢獄で」(2)とあるように、ヨハネはこの時のガリラヤの国主ヘロデ・アンティパスと妻ヘロディアの怒りにふれて、捕えられていました。(マタイの福音書4章12節p5、14章1-4節p28)
 「キリスト(救い主)のみわざ」(2)は主イエスがこれまで なされたみわざです。
 「おいでになるはずの方」(「きたるべきかた」(口語訳))(3) はイスラエルの民が待ち望んでいたメシア(ギリシア語「キリスト」)(救い主)という意味です。
 ヨハネが自分の弟子たちにこのように問わせたのは、主イエスの行いが自分の抱いていたメシア像に合わなかったからだと考えられます。
 主イエスは、ヨハネの弟子たちにご自分のことばではな く、何をしているかをヨハネに報告しなさい、と答えられます。(4)
 主イエスがしておられることは、イザヤが預言していた 「メシア預言」が成就される出来事でした。(イザヤ書35章5-6節p1222、61章1節p1271)
 主はヨハネの弟子たちにご自身がキリストであることを 暗示されたのです。
 獄中にあって、主イエスにつまずきかけていたヨハネを 主は励まされました。(6)

2、救い主の先駈けを使命とする預言者
 ヨハネの弟子たちが去った後、主イエスは彼について群衆に語られます。(7)
 かつてヨハネはユダヤの荒野で活動し、悔い改めのバプテスマを説いていました。(マタイの福音書3章1-6節p3)
 人々ははるばるそのヨハネを見に行きました。(7b)
 「風に揺れる葦(あし)」(7c)は当時、「ありきたりの光景」を意味することわざでした。ここで主イエスは「柔弱な人」の意味を込めて語られます。ヨハネは、そんな人ではなく、神からの霊の力を受けていた人でした。
 人々は「柔らかな衣をまとった人」(8)すなわち王宮にいる人を見に行ったのでもありませんでした。
 ヨハネはそのような者とは正反対の生活をしていました。
 人々はこの預言者を見るために荒野に出て行ったのです。 (9abc)
 しかし、主イエスはヨハネを「預言者よりもすぐれた者」 と仰いました。(9de)
 彼はメシア(救い主)の先駈けとしてマラキが預言した 「エリヤ」でした。(マラキ書4章5節p1635)
 主はマラキ書3章1節(p1633)のことばを引用してヨハネの使命を語られます。(10)
 ヨハネは救い主の前に道を備え、「おいでになるはずの方」、主イエスを直接、証しする使命が与えられていたのです。
 ヨハネはそれを実行しました。(マタイの福音書3章11節p4   ヨハネの福音書1章29節p176)

結 論) 旧約聖書に預言されていた救い主として約2000年前に主イエスは地上に来てくださいました。
 ヨハネが預言したように、主イエスは十字架で死なれ、私たちの罪の赦しを与えてくださいました。
 十字架で死なれ、復活された主イエスを救い主と信じる者に聖霊が与えられます。
 私たちは「傷んだ葦(あし)」や「くすぶる灯芯」のように弱く頼りない者ですが、主イエスが私たちを守り、支えてくださいます。(イザヤ書42章1-4節p1235)
 今も、聖霊によって私たちと共にいてくださる主イエスの御守りと御支えを頂きつつ、置かれて所で主を証ししてまいりましょう。


(参考)
 「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱い者である。だがそれは考える葦である。…」
   『パンセ』ブレーズ・パスカル(1623-1662)
                        (前田陽一、由木 康 訳)